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無理をしない、自重もしない
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どうも。広報担当のPです。

前年度以前の先輩が更新してから全然更新されていなかったので、こちらにもすこし記入していこうと思います。
場合によってはこちらの記事は削除になるかもしれませんが、まあ、その時はご了承ください(笑)

で、タイトルのとおりですが、更新されていない間も活動はしてますよもちろん!(主にTwitter?)

こちらにアーカイブ記事をPDFで閲覧できる状態にしています。

このHP自体は当研究会の公式HPでもありますので、他のページも閲覧ください(^^)

でも、正直、これのページのことを知っている人は、ゲー研のことを詳しく知っている人か(笑)

一応、活動記録でございますので、もし良ければ程度でお願いします。

ではでは~
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ゲー研の課題兼映像嫉妬の原稿です。

さて、俺の残したいゲームは「Tales of Vesperia」です。
「おい、この腐男子が!!w」って思った人、
ヴェスペリアの魅力はそれだけではないのですよwww

この文章はヴェスペリアにおける正義の描き方を論じてますが、
同時にこのゲームの面白い(興味深い)点であります。
是非、このゲームが後世まで残り、研究の対象となることを望んでおります。

とりあえず長いです。
頑張って読んでね☆


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あなたにとって正義とは何ですか。正義のヒーローや、弱いものを助ける正義の味方、悪に対抗する者など様々なことを思い浮かべるだろう。ただ、正義とは正しい者が悪をやっつける。警察が犯人を追いつめる、間違ったことをした者に罪を与える。そのようなことだけだろうか。その正義の定義についてプレイしている人に訴えかけ、新たな正義の描き方を提示した作品が、「Tales of Vesperia」(以下、『TOV』と略す)である。
『TOV』は2009年にバンダイナムコゲームスから発売された、「『正義』を貫き通すRPG」を呼称としたゲームであり、歴代Tales of シリーズ(注1)の中で唯一映画化される程、世界観が練られている。キャラクターの設定も緻密に作りこまれており、作品全体を通して登場キャラクターの過去や未来がストーリーと絡みあっている。『TOV』は歴代のTales ofシリーズ、ひいてはゲーム全体において特徴的な正義の描き方をしている。戦闘シーンとイベントシーンの使い分け、環境に立ち向かう中での対立、皇帝のいない国家が『TOV』の特異な描き方で、『正義』を描くのに適している環境となっている。その特異な描き方を、表現方法と物語構成、他のTales of シリーズである『Tales of Destiny2』と比較して世界観、の3点から述べていく。他のTales ofシリーズと比較するのは、設定が似通っているがまったく別の作品であること(ただし、Tale of DestinyとTales of Destiny2は関連性がある)、それぞれの作品で言いたいことは異なり、他のRPGと同様に別の方向性から検証ができるからである。


 ゲームで正義を描く方法を述べる前に、少し『TOV』の物語に触れておく。『TOV』は3部構成となっており、1部が水道魔導器(注2)の犯人追跡。2部が始祖の隷長に会い、世界の真実を知る旅。3部が世界の真実を知り、世界を救う旅である。帝都の下町に暮らすユーリ・ローウェルは、下町の水道を制御する水道魔導器が盗まれ、犯人を追うために世界を旅することになる。旅を続けるうちに、犯人がカプワ・ノール港で執政官をするラゴウだと突き止める。彼は魔導器によって天候を操り、街の人々から高い税金を徴収し、無理難題を押し付けてはカプワ・ノールに暮らす住民を苦しめていた。その現状を知ったユーリはラゴウの屋敷へ乗り込もうとするが、ユーリの幼馴染で帝国騎士団に所属しているフレン・シーフォに止められる。彼はユーリと共に下町で育ち、共に騎士団で、下町の人々が過ごしやすい街を目指して奮闘していた。しかし、騎士団の貴族が優遇される体制などに不満を募らせたユーリは騎士団を脱退して下町でなんでも屋的なことをし、フレンはその腐敗した体制を立て直そうと騎士団で功績をあげ、2人はそれぞれ違った方法で下町のために奮闘していた。2人の違いはこのカプワ・ノールでも顕著に表れている。フレンはユーリを止めるように諭し、帝国の法でなんとかしようと試みたが、時間がかかりすぎる。そこで、ユーリは自分の罪を顧みずラゴウの屋敷へ突入する。その場では逃げられたものの、2人はラゴウを追い詰めた。追い詰めた際も、屋敷と同様フレンは帝国の法でラゴウを裁こうとしたが、ラゴウは執政官と貴族という権力を盾に罪を逃れた。それを知ったユーリはラゴウのような人々を苦しめ、権力をふるうことに許せず、殺してしまう。そのことを後に悟ったフレンは、街の橋にユーリを問いただそうと呼び出す。だが、その時魔物が街を襲い橋がちょうどユーリとフレンの間で壊れてしまい、フレンはユーリから本当のことを聞けないまま別れてしまうことになる。以上が『TOV』の1部の話のあらすじである。
 

 少し『TOV』の話について述べたところで、本題である『TOV』の正義の描き方について説明していく。上記でも述べたように『TOV』には『正義』を描くための特徴が3つある。1つ目が表現方法。『TOV』は戦闘シーンとイベントシーンを適切に使い分けることによって、『正義』とは何かを考えさせる表現方法がなされている。2つ目に物語構成。ユーリとフレンという目的は同じでも異なった方法で人を助ける、環境に対する対抗の対立を描くことで『正義』とは何かを訴えかけている。3つ目に世界観。どのような世界だと正義を訴えかけやすいのか、世界のルールという根底の部分から『正義』を訴えかけやすいようになっている。以上が『TOV』に見られる『正義』を描く特徴である。

 それでは、他のゲームとは一線を画した表現方法から『正義』の訴え方について考えていく。上記『TOV』の話の中で、ユーリがラゴウを殺害したというシーンがある。このシーンで『TOV』における特徴ある表現方法が用いられている。その特徴的な表現方法が戦闘シーンとイベントシーンの使い分けである。   
 一般にゲームというのは、プレイヤーがゲーム内のキャラクターを操作し、その反応が返ってくる相互作用(interaction)が特徴である。プレイヤーはキャラクターを操作し、ゲーム内のキャラクターになりきることで没入感を増加させている。その一環として戦闘シーンがある。戦闘シーンをこなすことで、ゲーム内のキャラクターが味わう達成感や、緊張感をプレイヤーも操作することで体感できる。そのため、大多数のゲームでは、『悪を倒す』ときには戦闘シーンが入り、その後イベントシーンで結末を見るという形になっている。しかし『TOV』は『人』を倒す際、戦闘シーンという没入感を誘うような表現を使っていない。いや、正確には『人』を倒すのに、戦闘シーンを用いている。ラゴウと共犯していたバルボスを追い詰めたシーンでは、戦闘が行われバルボスを撃破している。また、強力な軍事力で世界を支配しようとしていたアレクセイも、戦闘が行われ撃破している。では、イベントシーンのみの時と、戦闘シーンを挟む時の決定的な違いは何であろうか。それは、主人公たちが負わせた傷が原因で『人』が死亡するかどうかである。『人』を倒すときに戦闘シーンを挟むモノは、主人公たちと戦うが、その傷が原因で死亡するわけではない。上記に例として上げたバルボスとアレクセイも戦闘とは別の原因で命を落としている。バルボスは主人公たちに負けるぐらいなら…と自害し、アレクセイは巨大な魔導器が落下してきて命を落としている。一方で『人』を倒すときにイベントシーンのみで進行していくモノは、主人公が切った傷を原因として命を落としている。このイベントシーンのみで進行していくモノは2つしかない。ユーリがラゴウを刺して殺した時とユーリがキュモーレを崖の淵まで追い込み突き落としたときである。この2つは『正義』を描く物語構成にも大きく関係しており、それ故他とは違う描き方がなされている。なぜ、類似した『人』の死を区別して描いているのか。要は、何故没入感を増すような戦闘シーンを挟む方法で『人』の死を描かないのかである。
 『TOV』では主人公の刺した傷や、崖の淵まで追いつめて突き落とすことで『人』の死を描くときに、敢えて没入感を阻害しているのである。インタラクティブな要素(戦闘シーン)で表現するのではなく、非インタラクティブな要素(イベントシーン)で『人』の殺害シーンを描いたのには、敢えて没入感を阻害し、現実に立ち返って第3者目線でこのゲームを考えさせるためである。プレイヤーはゲーム内での経験上、『悪』が出てきたら戦闘で撃破していく、という概念がある。その概念を変えることで、プレイヤーに違和感を与え、没入感を阻害する。そうすることで、ラゴウたちの命を落としたユーリは正義なのであろうか、正義とは一体何であろうか、ということを振り替えさせる。この没入感を阻害するイベントシーンでの表現方法が他のゲームとは一線を画し、『TOV』の正義を考えさせる最大の要素である。


 それでは、次に物語構成から正義の描き方について説明していく。その前に、今まで『正義』とい言葉を多用してきたが、『TOV』において『正義』とはどのような意味を含んでいるのであろうか。一般に正義とは「①正しいみちすじ。人がふみ行うべき正しい道。②社会全体の幸福を保障する秩序を維持すること。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義は各人の法的な平等を実現した。」(「広辞苑 第五版」より引用)という意味を持っている。一方で『TOV』の物語中において『正義』とは、貫通目標を達成するための行為のことである。この貫通目標が“位の高くない人でも幸せに暮らせる世界”であり、ユーリとフレン2人の信念でもある。言い換えれば、『TOV』において正義とは、“位の高くない人でも幸せに暮らせる世界”を達成することである。また“位の高くない人でも幸せに暮らせる世界”とは、一般的な正義の意味である「社会全体の幸福を保障する秩序を維持すること。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義は各人の法的な平等を実現した。」(「広辞苑 第五版」より引用)も『TOV』の意味合いの中に含まれている。 
 『TOV』の理念としての正義を念頭に置き、実際の物語構成において、どのように『TOV』の正義が描かれるかを説明していく。『TOV』では2人の立場から正義が描かれている。帝都の下町で暮らしながら情を信念に正義を貫くユーリと、帝国騎士団に所属し法や規律を信念に正義を貫くフレンの2人である。彼らはラゴウを追い詰め捕えた際、フレンは彼の信念である法や規律によって正義を貫こうとした。具体的には、ラゴウを殺してしまうのではなく、裁判(法、規律)によって罪を与えることにした。しかし、権力もあり貴族出身のラゴウは裁判において、軽微な罪にしか問われなかった。そのような帝国の腐敗な状態に見切りをつけたユーリは、ユーリの信念に基づいて正義を達成するため、ラゴウを殺害する。類似したケースが物語の第2部でも出てくる。ラゴウと同様に帝国騎士団の隊長であるキュモーレも、自分の支配下にある住民を使って過酷な労働をさせていた。それを見たユーリは、自分の正義を貫き通すために行動に移した。ユーリはキュモーレ隊が駐屯している施設に忍びこみキュモーレを崖の淵まで追い込み、突き落としたのだ。キュモーレが死んだことによって、キュモーレが支配していた街の人々は過酷な労働から解放され、歌い踊れのお祭り状態になっていた。しかしこのときに、フレンはユーリに対して、ユーリのしたことは罪であり、人が人を裁いてしまえば秩序は乱れて、同じことの繰り返しになってしまうと訴えた。ユーリ、フレン共に共通する正義“位の高くない人でも幸せに暮らせる世界”を全体からみれば小規模な話かもしれないが、一つの街で達成したのだ。しかし、その幸せの裏には、自分の理想とする幸せのためなら人の命さえも排除する残酷さも含まれている。また、ユーリの貫く正義をまたキュモーレのような人物が現れた際に達成しようとするとユーリは再び人を殺さなければならない。そう、ユーリの考える正義はユーリの犯す罪、人を殺すことで達成されていることもフレンは提示している。
 上記2つの事例より、同じ目標を目指して、同じ『悪』に対して抵抗しているユーリとフレンだが、その正義の貫き方の違いによって、ユーリとフレンでの対立が起こってしまう。要は2つの立場から同じ『悪』に対して異なった考え方で対抗するとき、利害が一致していても2つの立場が対立してしまうのである。『TOV』では同じ『悪』に対して異なった考え方で対抗する関係を描くことで、互いの正義を違った立場から検証し、対立関係におくことで、『TOV』における正義についてより一層深く考えるように物語の構成が練られている。


 最後に世界観について述べていく。前提として、ゲームにおいて世界とは、全て人間が創造したモノである。緻密に計算して作られており、そこに偶然や奇跡はない。『TOV』でも、緻密に正義を描くのに適した世界が創造されている。『TOV』はテルカ=リュミレースという世界を舞台に物語が進行していく。この世界では、帝国による一国統治が行われているが、帝国の支配を逃れ自由を求め、ギルドという商業組織に属し、帝国と対立する人々も存在する。帝国もギルドも特定の神を拝める表現はないが、ゲームのところどころで神殿をモチーフにしたダンジョンが登場するため、自然崇拝を行っていたことが垣間見られる。帝国は政治を行う評議会と、治安の維持を守る騎士団の2大勢力から成り立っており、それを統括しているのが皇帝である。しかし、現在皇帝の座が空席となっており、エステリーゼとヨーデルの2名が次期皇帝候補として両立している。元々家柄を重視する評議会が皇帝空位の間、実質の最高決定機関として政治を行ってきたが、騎士団が独自にヨーデルを次期皇帝候補として打ち出したことによって、両者の対立が起こる。以上がTOVの大まかな世界観であり、正義を描くのに適した環境である。それではどこが正義を描くのに適している世界観なのであろうか。キーワードは『皇帝空位』と『自然崇拝』である。
 皇帝とは、国の最高決定権を持つことにより、人々の生活を決め、人の歩む道筋を作る。皇帝がこうと言えば、それが国の法となり、人々の生きる指針になる。また宗教も同様である。各自が信じる宗派の神、もしくは崇拝物が示す生き方、あるべき道筋を人々はたどることになる。要は、皇帝や宗教が大きな力を持つ世界では、皇帝もしくは神が絶対的力をもち、物事の基準を作る。人々は皇帝や神の基準に合わせて生活を送るため、基準=皇帝、神となるのだ。上記でも述べたが正義とは「①正しいみちすじ。人がふみ行うべき正しい道。②社会全体の幸福を保障する秩序を維持すること。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義は各人の法的な平等を実現した。」(「広辞苑 第五版」より引用)のことであり、世界観に関しては①の定義の正義が論点となってくる。そして、正義の定義の①が先ほど述べた皇帝や神が生きる指針を与えるということに類似するのではないだろうか。皇帝や神は人が歩んでいく指針を打ちたて、人々は生活を送る。人々にとって、皇帝や神の与えられた道を歩むことが正義であるのだ。そう、皇帝、神が生活の基準となることで、正義の基準、善悪の判断の材料にもなりえるのだ。そこでTOVでした世界観は『皇帝空位』『自然崇拝』なのである。世界に正義の基準を設けないことによって、人々は各自で正義とは何か、帝国に守られた平和な暮らしか、もしくはギルドに所属し自由に生きることか、を考えなければいけないようにした。
 この事例と間逆なのが、同じTales ofシリーズの『Tales of Destiny2』(以下、『TOD2』と略す)である。『TOD2』の世界にはアタモニシ神団と呼ばれる宗教団体が存在し、人々は“ゆりかごから墓場まで”アタモニ神団の恩恵を受けて暮らすである。子供が生まれれば、アタモニ神団に名前をつけてもらい、死ぬときにはアタモニ神団で葬式を行う。熱心な信者は一定の年齢に育つまではアタモニ神団の教会で暮らさせるなど宗教と生活がかなり近い世界観となっている。アタモニ神団を信じていない人々もいるが、世界の大多数はアタモニ神団の信者であるため、アタモニ神団に歯向かう=悪い存在となるのである。人々はアタモニ神団が示すように生きる道を歩み、アタモニ神団=生活の基準、善悪の基準、ひいては正義の基準となるのである。『TOD2』の事例のように世界観に宗教が根強く繁栄されていると、宗教が正義の一つの基準となってしまうのである。なので、『TOV』では特定の根付いた信仰は設けず、世界観を構成した。『TOV』は世界に正義の基準を設けないことによって、正義について各個人が正義の基準を持ち、正義をめぐる複雑な心理描写を可能にした。
 

『TOV』は作品を通して、正義を貫く方法は一つではないことを提示している。ユーリのような罪を犯すという自己犠牲の基に成り立つ正義もあれば、フレンのような長期的に持続させるような正義もある。しかし、『TOV』において一貫して言えることは、正義とは“自分以外の他者の幸福”のために行う行為のことを言う。ユーリもフレンも“自分以外の他者の幸福”のために奮闘し、葛藤し、対立し、正義を貫いた。この『TOV』において一貫して言えることはその他の正義でも同様のことが言える。一番初めに提示した、正義の味方や正しい者は“自分以外の他者の幸福”を中心として行動している。また、警察が犯人を追いつめるなど、“自分以外の他者の幸福”のために行動しているわけではないが、結果として、他者の幸福を奪う者を捕まえるわけだから、同時に“自分以外の他者の幸福”を満たしていることになる。『Tales of Vesperia』は“自分以外の他者の幸福”という正義の前提を提示し、『正義』を考えさせる表現方法、物語構成、正義を描くための世界観の設定という3つの特徴的な描き方によって、『正義』とは何かを問いかけ、正義を貫く方法は一つではないことを提示した作品である。
 戦闘シーンとイベントシーンの使い分けることによって『正義』を考えさせる表現方法を確立し、同じ『悪』に対する異なった立場からの抵抗より、正義についてより考えさせる新たな物語構成を提示した。また皇帝と神のいない世界観は、各個人に正義に対する考え方がないといけない世界を作り出し、『正義』を描きやすい土台を作った。以上の3つが『Tales of Vesperia』における正義の描き方である。

注1)Talas ofシリーズは1995年にスーパーファミコンから発売されたTalas of Phantasiaを皮切りに、エターニア、デスティニ―など計13作品、派生作品も含めると23作品も生み出しているビッグタイトルである。

注2)世界に存在する万物を構成するエネルギーの源「エアル」を動力源とした古代技術のこと。魔物から人々を守る結界を作り出す役目や、光を灯す役目など、生活にはなくてならないものとして浸透しているが、技術の解明が進んでいないため帝国がそれらを全て統括・管理している。



以上7000字の論文をそのまま添付www

(文責:渡辺)

言いだしっぺの法則を見事にぶち壊しました。
春休み中に…とか言っておいて最終日に滑り込み!
すみません!

えー、それでは個人的に推したい2本を。
難しく考えなくてもプレイすればきっと面白いのでやってみてね!


↓↓↓↓↓


・モンスターファーム(プレイステーション/テクモ・1997)

 1つのゲームを楽しむうえで複数のロムを活用できるというソフトは少なからずある。例えば、ニンテンドーDSのソフト(ポケットモンスターダイヤモンド/パール等)ではゲーム自体のメディアはDSカードだが、特定のゲームボーイアドバンス用ソフトを本体に挿しておくことで、何らかの追加要素が得られるというものもある。古いものではMSXでの2スロット対応ソフトなど、「一つのゲームに一つのメディア」という考え方は早い段階で覆されている。

 その点に関して、この「モンスターファーム」は特筆すべきものがある。それは本作の最大の特徴「CDを読み込んで、そのデータを作中で育てるモンスターとして再生する」点だ。
再生できるのは、ゲームソフトに限らず音楽CD、データを書き込んだCD-Rなど、基本的にCDであれば何でも構わない。またそのCDの内容は、それぞれ個別にモンスターの種類や能力値などに反映される。このシステムは続編や派生作品でも用いられており、プラットフォームがPS2になってからはDVDにも対応している。

 この「CDであればどんなものでもいい」という汎用性によって、本作ではゲーム内で楽しむというだけでなく、「より強い・よりかっこいいモンスターを再生できるCDを探す」といったようにゲーム外での宝探し的な楽しみ方も生み出している。こうした遊びの提供は、プレイヤーには何が楽しく感じられるかということを柔軟に考えた一つの結論ではないだろうか。



・beatmania(アーケード/コナミ・1997)

 「リズムアクション」や「音ゲー」と呼ばれるジャンルは既に確立されているが、これはその礎ともいえるタイトルだろう。
 ルール自体はシンプルで、平たく言えば「音楽に合わせてボタンを押す」だけである。本作はDJシミュレーションというコンセプトを持っているためターンテーブルなど特殊な入力デバイスを用いているが、PSで発売された家庭用を通常のコントローラで遊ぶ上でもそのルールは変わらない。

 本作について注目すべきは、beatmaniaシリーズの続編としてナンバリングタイトルが今もリリースされ続けているが、このルールが第1作発売時から今に至るまでの約14年間ほとんど変わっていないということである。ゲーム画面を見ても、そのインターフェイスや画面構成はほぼ同じものだ。基本的にこのシリーズで次のナンバリングタイトルがリリースされることは、「新曲が追加される」ところに最も大きな意味があり、その他のデザインなどの部分は微調整程度でしかない。

 おそらく最盛期は過ぎたと考えられるが(ゲームセンター自体の盛衰もあり単純に言い切れるものではないが)、シンプルなルールで長く支持され続けているのは、そう簡単に飽きることのない「身体・感覚に訴える楽しさ」を持っているというのが大きな理由だろう。

(文責:スミス)




ジャーキーさんと同じく客観性に不安が…
好きな作品はどうしてもプラスの面ばかり考えてしまう

ゲームに求めるものの一つに「直感的な操作」というものがある。それを実現するには記号や色彩を巧みに使う。というのもあるが、操作それ自体をダイレクトにゲームに反映させるという方法がある。そのために古くは「ハングオン」などのアーケードの大型匡体から家庭用のガンシューティングコントローラまで、時には携帯機に傾きを検知させてゲームに反映したり、と数多くの試みがなされてきた。

如何にして自分の起こすアクションとゲームの操作を一致させるか、近ければ近いほどそれはゲームとしての面白さがよりよくなるのだろうか?
恐らく完全な正解は存在しない。が個人的に「直感的な操作」から生まれる面白さの1つの到達点と思える今回の「メトロイドプライム3 コラプション」を取り上げてみようと思う。

本シリーズは1人称視点のアクションであり、シリーズ1作目、2作目はゲームキューブ、今作はプラットフォームを変えてWiiでの発売となった。

そして、このゲームで使うのはGCコントローラ、Wii専用のコントローラ、ヌンチャクを使う。それは操作性に完全な別物となるほどの変化をもたらすことになる。

開発者をして「そもそも、Wiiリモコンやヌンチャクは、『メトロイドプライム3』のために開発されたと言ってもいいくらいで・・・。」と言わしめるまでの操作性を少し見て行こう。
(参考:http://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rm3j/vol1/index.html)

従来のGCコントローラだと、2本のアナログスティックを使いこなす他のFPS系のゲームの操作とほとんど同じ。それに対して、Wiiコントローラでは移動こそスティックに依るものだが手首によるカメラと照準を同じ操作で行うで絶対的な位置を掴み、マウスの操作にも似ており、そのためかなり直感に近い操作になる。

これだけだと上記にあるガンコンと大きく変わらないが、ヌンチャクやその組み合わせ次第で従来(初代プライム、プライム2ダークエコーズ)のアクションとほぼ同じこともできる、というのが大きい。
主人公には主に両手を使った様々なアクションがあるがそれをヌンチャクでほぼ完全に再現している上、コントローラの機能もほぼ余すことなく使えている。

確かに最初にする操作としてはなかなか難しい部分も多いが、慣れれば直感的な操作を体現し、またゲームの中の主人公と自分が近くなる=高い没入感、であると言える。


このゲームの魅力はその操作性の高さだけではない。そのゲームが与えるゲーム的な緊迫感というのもこのゲームに熱中させ、より没入へと導く1つの要因といえる。

このシステムはプライムシリーズ共通に存在する仕様なのだが、要所に存在するボスにおいては相手の攻撃を防ぐことで体力回復アイテムやミサイル等の補給アイテムが出現することがある。
そして補給アイテムに対応する最大値からの現在のパラメータが低ければ10の回復がより回復量の多い20や50回復するアイテムが発生、という仕様となってがいるのだが
これが実にバランスの取れた物となっていて、特にボス戦においては、最初の内は攻撃が分からないため、ダメージを大きく減らされ、どうにか回避や防御が可能になった頃にはギリギリの戦いになりやすく、上記の仕様のためその状態が続くことが多いため、高い緊迫感を与えてくれ、熱中させる。

また、本作の大きな工夫の一つとして、自身の体力と引き換えに飛躍的にパワーアップさせるいわば諸刃の剣的なシステムである「ハイパーモード」がある。
ゲームのシステム上どれだけ体力があってもパワーアップ中に強力な攻撃を連続で受け続けるとゲームオーバーになってしまう。引き換えに使う体力は一定なので体力の低い前半の使いどころの判断が少々難しいが、これも見事なバランスで上記のゲーム的緊迫感を高めてくれる一因となっている。


一般にこのゲームは難しい、とはよく言われる。バランスが見事であると書いたが確かにゲームのバランスに関して客観的な基準が存在しないも同然なので、正直、個々の主観による。しかし、このゲームの面白さ、特に直感的な操作と緊迫感が上手くミックスされてできる没入感はこれまでにない良質で高いモノだと言えるだろう。



文責:ジャーキー
(前の記事でもそうだけど、他のゲームとの比較を余りしっかりしてないので「客観」から程遠い気がする)

正式名称は「後世に残すべきデジタルゲーム100選」だったか、そんなような気がする

ゲーム研究会メンバーが主観でひとり最低二つずつ上記の100選に該当するであろうゲームを選び
可能な限り客観的にレビュー、紹介する企画でございます(多分)

特にどこからも許可を得ず、先走って書くため、後々修正するかもです。


わたくし、ジャーキーが先ず最初に紹介するのは「魔界塔士Sa・Ga(GB)」。です。ではいってみよう。


1989年12月にスクウェアから発売されたRPGである本作は今の大学生あたりの年齢層にはあまり馴染みが無い作品かもしれない。しかしこれに存在する「ラスボスにチェーンソー(即死武器)が効いてしまう」という有名なバグならネットが発達した昨今ならば聞いたことがある人も多い筈だ。もはや本作の代名詞といっても差し支えないとさえ言われている。これをもとにしたパロディも後年の作品にたびたび登場していたりする。

とまあ、ネタの紹介からになってしまったがこの作品は意外と知られていない事実として、スクウェア初のミリオンセラーの作品であったり、携帯機では初のRPGとなった作品だったりする。
このゲームが発売されるまで、風潮としてゲームボーイは「テトリス」に代表されるようなシンプルなゲームを遊ぶ、という印象が強かった。

そんな中で上記のようにミリオンセラーをとばしたこの作品だ。100選に入ったとしても十分な作品としての質の高さがある。さらにスクウェア(現スクウェア・エニックス)、いやゲーム業界全体に与えた影響は非常に大きく、歴史的な観点から見ても高い価値のある作品であるといえよう。

携帯機初のRPG、となればやはりその内容に相当慎重にならざるを得なかったであろう。
それまでにあった、それまでにあったRPGシステムの流用や、もっと言ってしまえば単なる移植でも十分だったのかもしれない。しかし、そんな状況下でも、あらゆる事に意欲的に取り組んだ結果、プレイヤーへの印象を、ゲーム業界に与えた影響を強烈にしていたのだと思う。


システム面もその一つである。先ずはそれからみていこう。

例えばキャラクターの種属のシステムだ。「にんげん」と「エスパー」に関しては成長システムに大きな違いがあり、エスパーは戦闘を重ねてランダム的な成長を繰り返す一方で「にんげん」は完全にアイテム依存の成長である。これだけでも昨今のゲームとは大きく異なるが「モンスター」という種族は最近のゲームから見ても非常に珍しく、おもしろい。
モンスターは戦闘終了後、敵の肉を食べて新しいモンスターに変身する。強いモンスターの肉を食べれば強くなるが、逆に弱くなることもあり肉を食べるたびにドキドキ感を味わうことになる。

尚、この際のステータス、技等は同名の敵モンスターと全く同じである、敵のステータスに充てられるデータをプレイヤーが使う方向にも利用する。それはゲームボーイという容量が少ないことを考えると、見事な工夫の賜物であり、挑戦的な試みのシステムといえるだろう。

また、このゲームはレベル制を廃止している、FF2の延長であるからかもしれないのだが
こうなったのはそもそも携帯機であるGBは当然ながら画面が小さい、にも拘らずRPGのようなジャンルはどうしても言語情報が多くなりがちだ。
そのあたりも「シンプルなゲームを遊ぶためのもの」の一因だったのかもしれない。
そのため可能な限り省ける箇所は省く、という意識があったのかもしれない。
またこれのメリットとして携帯機という性質上、電池等の持続に問題があったはずなのでレベリングのような作業は不向きだったのだろう。
どこでもセーブが可能というシステムも併せてそれを見据えたシステムは秀逸である、と言える。


また世界観、それに付随するシナリオもその一つに数えられる。

このゲームはあらゆる環境をを4色で表現するため巨大な「塔」という概念を持ち出した。
あらゆる世界がそこに内包されており、その中で最上階(23階)から続く楽園を目指していく、というのが大まかなストーリーである。
下の階層ではそのストーリーがシンプルに進んでいく、いかにもそれまでRPGでありがちの世界(1階の地上世界、4階の海洋世界、10階の空中世界)のだが16階ではバイクで移動したり、ビルが建っていたりする。今でこそ、このような現代風の世界観はありふれたものとなっているが当時としては斬新なものだった。

16階のボスを倒せば最後23階の扉の前にいるボスを倒しに行くだけ…なのだがその間に存在する世界でこの塔の現実の一部を知ることになる。それにおけるイベントの印象は強烈だ。
特に19階~21階のイベントは、表現力に乏しいハードだからこそできたイベントとも言われており、このゲームの殺伐さを十二分に表現している。

ゲーム中のセリフ回しも独特であり、1つのネタとしてプレイヤーに与える印象を強くしている。
本来なら店主が言うであろう「いらっしゃい」が「なんの ようだ!」となっていたり、
「だれが はいっていいと いった!」→「おれだ!」といったようにエッジが効いている。


いい意味で、挑戦的で、常識から外れたRPGだったのである。

これらの様々な挑戦が、この作品を盛り立てていき、ゲームボーイ、携帯機の可能性を大い示した。余談ではあるが「ポケットモンスター」も本作が示した可能性から作られた作品の一つである。
(参考:http://www.nintendo.co.jp/nom/0007/taidan1/page02.html)

発売から既に20年以上が経過した作品ではあるが、リメイクも多くなされている。機会があれば、是非手にとって遊んでみて欲しい。今プレイしても、きっと面白い作品だから。


文責:ジャーキー

 うみねこも考えたが、ここに書けるほどやりこんでもないので、kingdom hearts358/2について考察してみようと思う。Kingdom Hearts(以後KH)

 買ってプレイした感想を率直に言うと、期待はずれだった。ぶっちゃけると作業ゲーである。私はKHシリーズが他のゲームでも特に好きなのであまり文句は言いたくない。だが、メーカーが宣伝文句で言うように、初心者でも楽しめるとは到底思えない。期待していただけあって、かなり残念に思えた。
  Kingdom Hearts1.2ともPS2での発売、chain of memoriesではアドバンス、そして今作ではDSでの発売となった。KHシリーズではまだ、PSPと携帯アプリでの発売の予定もある。今作の内容は、KH2に登場したロクサスが生まれてから、KH2の最初までの日々となっている。KH1とKH2の間の話と考えてもいいだろう。グラフィックとしては、私がこれまでやってきたDSゲームではかなり綺麗に感じられた。さすがにPSPには劣るが、DSであれだけのムービーが出来ることに驚いた。システムだが、このゲームではレベルから魔法までパネルシステムになっている。魔法もゲージではなく、パネルにセットした数で決まる。はじめは戸惑ったが、慣れればとてもやり易く感じられた。アクションも激しくて楽しい。始めはやりづらかった十字キーも、途中から気にしなくなった。そして通信プレイが秀逸。13機関や隠しキャラが使えるのはKHファンとしてはうれしい。これだけだと、良いゲームと感じられるかもしれない。
 私の意見だが、悪いと感じたところを上げるとすれば、カメラワークが悪すぎる、ロックオンしにくい、レベルまでパネル、武器が買うまで性能がわからない、自由性がない、途中からザコキャラがみんなボス並、ストーリーとまったく無関係のミッション、同じようなミッションがタイトル通り358日間ひたすら続く、ミッション中にセーブできない、などだ。 
 魔法や武器や技をパネルで設定するのはまだしも、レベルまでパネルに入れなければ反映されないというのはよくわからない。さらに、アイテムショップで買う武器が値段しか表示されず、レベルや性能がまったくかかれていない。買うまでそれらがわからないというのはいかがなものか。ミッションごとに様々なワールドへ行けるが、行く必要の無いところはすべて制限されている。前作までは、ディズニーの世界に自由に行き来できて、その世界に浸れたのだが、今作はまったく浸れない。そもそも、ディズニーキャラの存在がほとんど空気である。テレビCMではディズニーキャラが多く出ているように見えないこともないが、このゲームではディズニー好きなKH初心者が楽しめるわけないだろう。途中から急にザコキャラがザコボスキャラ並になり、ボスキャラのHPゲージが恐ろしく長く攻撃しても減らない。ひたすらAボタン連打。このゲームで親指痛めました。そんな敵をミッション毎に倒していかなくてはならない上、恐ろしいほストーリーと関係のないミッション。終盤にはさすがにストーリーが急展開になり、どんどん進められたが、私がこのゲームを最後までできたのは前作で謎だった部分が気になっていたからだ。もしこのゲームがまったく初プレイのゲームだったら、恐らく序盤で投げていたと思う。今作で楽しめたのはキャラが大好きなユーザーだけだろう。
 KHシリーズにはめんどくさい敵キャラは多いとは前から思っていたが、今作はいっそう際立って感じられた。これがキングダムハーツか、と思われたくないので、初めてだという人にはやってもらいたくはない。




文責:ぺリーぬ
 こんなこと書いといてあれですがKHキャラ大好きなのでそれなりに楽しめました。
 


この夏にやっとDSを手にいれた。遅れながらもテイルズファンとして『テイルズオブテンペスト』をプレイしてみた。そこから学んだことを書いてみる。
 
 テイルズシリーズは1995年発売のテイルズオブファンタジアを初めとし、テンペストまででも8作品がある。その中でテイルズ独自の世界観を築き、プレイヤーに学習させてきた。アイテムの名前・効果、技の効果、アクセサリーの効果、料理システムなどが挙げられる。今回のテンペストはテイルズシリーズとしては初めて(正規タイトル、なりきりダンジョンは含まない)携帯ゲーム機で発売となった。そのため、今までのテイルズの世界観とは異なった表現をされている部分がある。
 第一に、アイテム使用時のエフェクトがなくなり、効果がたいへん実感しにくくなった。今までのテイルズシリーズならば、敵を寄せ付けないようにするアイテム“ホーリーボトル”を使用すると、キャラクターの周りに白い膜が張られて効果が視覚的に表現されていた。しかし、テンペストではアイテムの説明欄に20秒と表記されているだけで、今までのような視覚的表現がなくなった。プレイヤーはアイテム使用の効果が実感しにくくなり、プレイ中のストレスとなってしまっている。
 第二に、技の制限がある。今まで、NPCは自分から技に制限をかけることはできるが、ゲームのシステムとして制限されることはなかった。しかし、テンペストでは自分の操作するキャラクターと同様に4つしか技を発動できなくなった。また、戦闘中もNPCに直接技を指定して発動させることができなくなった。なので、回復役のキャラクターにも命令をできず、しかたなくアイテムを自ら消費するしかなくなる。これもプレイヤーにとったらストレスになってしまう。
 第三に、オープニングがフルアニメーションじゃなくなったことだ。これはゲーム中のプレイにはまったく関係ないのだが、テイルズといえば、あのフルアニメーションのオープニングではないだろうか!?この問題は例えば、ドラクエのオープニングの曲が「序章」ではなく、「となりのトトロ」になってしまうような感じである。プレイには直接関係ないのだが、どこか締まりがなくなる感じである。
 
 自分がテイルズオブテンペストを通して学んだことは、ハードが変わってもストレスと快感のバランスを崩してはいけないということだ。新たなハードが出てそのハードに乗り換えるとしても、今までシリーズを通して一貫していたこと(今までのバランス)を変更せずに乗り換えることが重要である。それがファンを維持し、新たな買い手を増やすことにつながるのではないだろうか?

文責:渡辺

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Game Trailersの「ホラーゲームTOP10」によると、最も怖いテレビゲームに選ばれたのはサイレントヒルであった。また、クロックタワー、零、バイオハザードもランクインしており、そのうち零とバイオハザードは上位に入っている。これらのホラーゲームは全て日本で生まれたものだ。
国内外で高い評価を受けている日本のホラーゲームだが、恐怖の対象はゾンビやクリーチャー、霊などと外国のホラーゲームのそれとあまり変わりがない。
それではいったい何が違うのだろうか。

動的、静的な怖さの違い、出血表現など色々違いはあるが、私は「主人公が持っている力の制限」がもっとも国内外のホラーゲームでの違いであると思う。
外国のゲームでは出てくる敵は持っている武器で殲滅するか、撃退する場合が多い。それが出来るのは持っている武器が強いからであり、敵を倒すことが比較的容易だからである。
一方、日本のホラーゲームでは「敵をやり過ごす、敵から逃げる」ことが主となっている様に思われる。敵が主人公より強く、容易に倒す事が出来ないためである。
クロックタワーはまさにハサミ男から逃げるゲームであるし、サイレントヒルも敵を倒しまくるゲームではない。バイオハザードは今では敵を撃っては殴り、撃っては蹴るアクションゲームになっているが、初期の作品では簡単にゾンビを倒すことが出来ないゲームだったので、しばしばゾンビから逃げる必要があった。零では敵である霊が無限に沸くため、ずっと戦っているわけにはいかない。

また、「プレイヤーがゲーム内で見れる部分の制限」も大きな違いの一つであり、重要な恐怖の要素だと考えられる。日本のホラーゲームではカメラアングルが固定されている場合が多い。これは上記の4つのゲームすべてに当てはまることである。不自然なカメラアングルはプレイヤーを不安にさせ、恐怖心を煽り、ゲームプレイの操作性にも影響する。ゲームは操作性が良いように作られるが、ホラーゲームでは逆に操作性を悪くさせる事によって、簡単に敵から逃げられないようにしてプレイヤーに焦りを感じさせることに成功している。

日本のホラーゲームでの恐怖の要素は、単なる見た目や突然化け物が現れる驚きだけではない。ゲームシステムなどの目に見えない部分や、気付きにくい部分での工夫がプレイヤーを恐怖させるのである。

文責:machi

 
物語を語る形式は数多くあり、古くは口頭伝承といったものであったのであろうが、ここでは、形式として新しい「ゲーム」における物語の語り方に対する考察を述べたい。  
 
ゲームは物語を語るのには適さないメディアだと唱えられる事も多い。それは、ゲームにおいて「死」を描く困難さ、身体性の欠如が主たる要因となっている。ゲーム内の物語は、基本的にリセット可能なものとして描かれる。ゲームは、行動や選択の誤りによって、失敗、ゲームオーバーとなっても、最初から、またはセーブした地点等からやり直す事が可能なため、「死」という本来リセットできない事象を描くには相性がよくない。また、ドット絵やローポリゴンのモデルなどは主に記号としての属性が強く、感情移入を阻害しかねない点も、リアリティのある死をゲームから乖離させている。  
 
 しかし、上記に触れたゲームというメディアの特性を逆手に取り、物語を展開される作品が存在する。『YU-NO』『マブラヴオルタネイティヴ』などが、それに該当する。両作品ともアドベンチャーゲームのジャンルに分類され、多くの他作品と同様、物語が分岐し、複数の結末が用意されている。ただ、両作品の特色として、通常、主人公が認知できるのは1つの結末だけなのに対し、複数の結末、失敗いわゆる「バッドエンド」を含むそれらを、一貫した流れとして認識する点が挙げられる。  
 
 少し具体的に見ていこう。『マブラヴオルタネイティヴ』及び『マブラヴ』(以下、両者とも『マブラヴ』で統一)は、「エクストラ編」「アンリミテッド編」「オルタネイティヴ編」の三部構成から成り、アンリミテッド、オルタネイティヴ編では、時間軸、基本的な出来事が共通する。オルタネイティヴでは、エキストラ編におけるメインヒロインの、アンリミテッドではエキストラ編におけるサブヒロイン5人分の分岐(ルート)が準備されている。主人公はそれらの分岐を連続したものと捉える。また、アンリミテッド編ではいずれも主人公の死亡によって締め括られるが、オルタネイティヴの段階に至って、その自らの死さえ主人公は認識するようになる。その様子は、画面の前で勇者の死を客観的に眺めるPRGプレイヤーさながらである。  
 
マブラヴの主人公は、自らの死すら身体性を感じられない状況下にあり、アンチテーゼ的にゲーム内の死を描いている。さらに同作品は、作品内のキャラクターの、ひいては自身の死に対し、主人公が身体性を見い出すことで物語が大幅に転換する。つまり、落命してもオルタネイティヴ編開始時の時間軸に退行するだけといった認識を改め、「生」の一回性を自覚する主人公の成長を物語のハイライトとして描いているのである。  
 
 前述したように、メディアの性質上、失われがちな身体的リアリズムを逆説的に利用した物語の展開は、ゲームという表現媒体が固有に持ち得た物語の語り口の1つと捉えられる。しかし、『YU-NO』にしろ『マブラヴ』にせよ、どちらもアドベンチャーゲームであるという点には留意したい。何故なら、アドベンチャーゲームである以上、テキストやアニメ調のグラフィックといった身体性を描き得る表現を多分に含み、純粋にゲームだけとして語りであった一概に断定できないためである。  
 
執筆:副代表フィジー

最近自分がプレイしたゲームにDS専用ソフト「シグマハーモ二クス」(以下SH)というのがある。浜渦正志という個人的に昔から好きな作曲の方が参加しておられたので興味を持っていた。ただこのゲームは完全にクリアしたもののいまいち自分の感性には合わなかった。

それはさておいて、これも含めたゲーム音楽について話していこうと思う。

このゲーム、一つの売りとして音楽を前面に出していたのだが実際のプレイ中には音楽はそれほど記憶に残らなかった。少なくとも過去に氏が作曲を手掛けた作品ではこうはならなかった。

しかし、一度このゲームのCD音源を聞いてみると自分の中の評価は一変した。同じ音楽の筈なのに氏のいつもの作品の様に強く印象に残ったのだ。その要因として音質があるように思った。だがそれに対する反論がある。これはインタビューで氏が仰っていたことなのだがこの作品ではストリーミング再生、つまり内臓音源を使わないものになっていて音質はDSにしては良いものなのだそうだ。

確かに、プレイを一旦止めて音楽に集中するとCDと比べれば音質は下だが言っていることはなんとなくであるもののわかる。と、なればそれ以外の要因が考えられる。

 

 

その一つにゲームの媒体としての問題があろう。これは携帯ゲーム機以外もひっくるめて話すとまず、コンシューマ機、これには基本的に音のうるささについてあまり気にする必要がない環境において使う場合が多く、よってあらゆる形態のゲームでもっとも音楽の比重が高い、といえる。実際氏の作品もこれまではコンシューマ機でそれが印象に残っていた。

一方その対極、つまり最も音楽の比重が低い形態は恐らく携帯電話のアプリと思う。その証拠といってはなんだが携帯のアプリの音を出しながらプレイする人を自分は見たことがない。またこのゲームの形態は基本的にいわゆる「暇つぶし」を想定し比較的静かな場所でプレイし長時間集中させることをあまり想定していない筈だ。大体の場合周りがうるさかったり、逆にうるさくすることに気を使う場所であることがほとんどであると思う。その他アプリの音は貧弱で何度も聞く程の価値はないという先入観のためかイヤホンをつけながらのプレイもほとんど見たことがない。

で、その間にくるのは携帯ゲーム機だ。といってもイヤホンをつけながら、というのと付けずにプレイではかなり意味合いが変わるのでここは分けておこう。

前者では携帯のアプリとは違いあらゆる局面で音楽を聴くことが可能である。そのためかなりコンシューマに近いレベルで音楽の比率が高いと考えられる。ただ若干音質の問題とあらゆる環境で音楽を聞けるとはいえ移動中など場合によっては他の事に気を使わなければならない場合が多く、それらの要因のせいでコンシューマ機より低い、と思われる。

逆にイヤホン等をつけない場合。音楽を聴くにはコンシューマ機と同じ位の環境が必要になってくる。しかし昔ほどではないものの音を出すと問題になってくるのは電源の問題だ。そのためか家であろうが携帯ゲーム機で大きな音を出す人はほとんどいない。よってこの場合は携帯アプリより若干音楽の比率が高いものの前者と比べると大きく劣ると思われる。

最後にアーケードゲームだが、これは周りの環境のうるささ、といものが大きく、またゲーム自体がゆっくりさせて聞かせよう、というコンセプト自体が存在しない(選択画面中での制限時間など)ため音楽の比率としては高くないように思う。余談になるがかのメガドライブの名作「OUT RUN」の有名な「Magical Sound Shower」という曲、小さい頃の記憶に残っていたのだがいざこの年になってアーケード版の2SPでプレイしてみると周りのうるささなのか、ゲームに集中しているのか急かされているのか思ったより音楽が耳に入ってこなかった。

これらを踏まえると形態によるゲーム中の比重は

コンシューマ>>携帯ゲーム機(イヤホン有)>>>>>>アーケード>携帯ゲーム機(イヤホン無)>>>>携帯電話のアプリ 、人によっては若干違いがあるだろうがこんなところだろう。ちなみに自分はSHをイヤホンなしでプレイしていたため印象があまりなかったと考えられる。

 

音楽に集中できないもう一つの要因は媒体やその他外的要因ではなく先ほども挙げたゲーム自体の内容だといえそうだ。

このゲームは基本的にRPGなのであるが個人的にテンポは良いとは言えない。進めても普通のRPGとは違い行動範囲がほとんど、いや全くといっていいほど広がらないというのもある。そのため進めるのに若干のいらつきがある。また戦闘部分でもリアルタイムに進むため余りゆっくりしていられない。これらの要因からプレイヤーを急かし音楽をしっかり聞かせられないように思う。

ここで一つの比較対象として「ソニックラッシュ」(DS)(以下SR)を挙げてみたいと思う。このゲーム、アクションであり、やりこむ段階ならばレースーゲームに近くSHとは対照的で実にテンポが良い。ただゲームの性質上同じく急かされているにも関わらずこちらは耳に残りCD音源とあまり印象は変わらなかった。ストリーミング再生でもなく、DSの内臓音源を使っているものなのに。その違いは、となると。

サウンドテストの存在、SHにはなくSRにはあったものだ。断定は良くないが普通これがゲームに搭載されているならば殆どの人は少なくとも一度は使うであろうと思う機能だ。

これで聞くゲーム中の音楽に効果音を排除できるのはもちろん、ゲーム中では聞けない曲の終盤が聞けたり、曲のアレンジがある場合その比較が出来る。この3つ、音楽を印象付けるという意味ではプレイヤーに対してかなり大きな意味を持つものと考えられる。個人的には3つ目が特に大きい。

もともと自分が氏の作品を好きになったきっかけが「SaGa Frontier2」におけるアレンジの多様さだったのでそれがより拍車をかけた、というのが少なからずあるのだが。

 

最後にはやはり曲自体の問題になろう。SRの音楽は長沼秀樹という「Jet Set Radio」シリーズなどを担当しているテクノに定評がある作曲家が担当している。

テクノというジャンルがゲーム自体のテンポと親和していた、というのも大きいがやはり携帯機で聞きやすい軽くてノリのいい、そしてキャッチーな曲というのがあるだろう。

対してSHでは少々重い感じの曲調が多く、また携帯機ではきれいな音を出すのが難しい、

(特に重低音)にも関わらずピアノその他高い音質を要求する(と思われる)音源を使っていたのが多かった、というのも大きいのだろう。

 

これらのことからSHが売りにしていたはずの音楽はシステム面、媒体選択など、あらゆる要素との不和を引き起こしていたと考えられる。

CDから聞いた曲自体は氏の作品らしさを感じ自分も満足したのだが…

その他の要素のせいで音楽も評価されないというのは非常に残念な話である。

 

まあ、かといって大抵の場合音楽はゲームに対して親和「させる」方であって

音楽中心になりすぎるのもまた問題なのだろう。

音楽って基本客観的な見方がしにくいからこういうのを書くのが難しい…

文責:ジャーキー


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