忍者ブログ
無理をしない、自重もしない
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


今回はゲーム内(主にRPG)の「物語」に焦点を当ててみたいと思う。
そもそも物語が成立するとはどういう事なのであろうか?
アメリカの社会学者ライト・ミルズの言葉を借りると、「動機の語彙」によって事象が繋がっている状態と簡潔に述べる事が出来る。

「動機の語彙」とは、何らかの行為を説明する際に用いる理由の事である。
例えば、「ある男が小学校教師になった」という事象があったとする。この男がその行為に至った動機はいくつか挙げる事が出来るだろう。
その男は子供が好きだから、あるいは、その男は実はロリコンだからといった具合である。

ここで留意して欲しいのは、「動機の語彙」とは社会的に構築されるものであるという点である。つまり、共同体や時代等の違いによって、同じ行為であっても説明に使える理由は異なってくる。
先程の例に基づくなら「子供が好きだ」という説明は、わりと普遍的な説明であろうが、「ロリコンである」という説明は、例えば戦前や明治維新期には、社会的に納得し得るものとは成り得なかったであろう。

話は少し脇道に逸れるが、納得し得ない動機を「ご都合主義」と称される事が多々見受けられる。この言葉は、「デウス・エクス・マキナ<機械仕掛けの神>」として表される事もある。
(本来、「デウス・エクス・マキナ」とは演劇における演出技法の一つであるが、本文では、今日多用されている広義の意味合いで用いる)
「機械仕掛けの神」という語意が個人的にはとても興味深い。
物語として最も古いものの一つとして「神話」が存在する。神話は、古代の人々が「動機の語彙」を、人為的な動機のない自然現象にまで流用した結果と云っていいだろう。
「雷」一つを例に取ってもゼウスやトールの怒りだったり、妖怪の類の仕業だったり、様々である。
「動機の語彙」は「神」という語と親和性が高いように思う。物語の書き手、つまり創造する主体を「神」と呼ぶ風潮も、こうした流れを受けてのものかも知れない。

さて、前置きが長くなったので、話をゲームに戻した上で、一つの疑問を呈したい。
ゲームでの「物語」を作るのは作り手(神)だけでなのだろうか?私見ながら、答えは否である。

例えば、あるボスキャラを倒した時点を切り取って考えてみよう。
その際の登場人物(パーティー編成)、装備品、所持アイテム、戦闘での行動と所要時間、それらが他者と同一になる可能性は無に等しい。
ゲームをプレイする事は、消費者それぞれが違った「物語」を形成しているのだ。そのため、用意される要素が多ければ多い程、多様な「物語」が織り成されると云える。

しかし、本文によって指摘したいのは、そうしたシステム上での行為が多様化していく中で、いわゆるシナリオとしての意味合いでの物語が、プレイヤーにとり、受動的になってきている現状である。

ファイナルファンタジー(以下、FF)シリーズを例としよう。

FFⅡでは、最初の戦闘において強力な敵に全滅する事を余儀なくされ、仲間の一人がこの時点で離脱する。
状況を描写すると、主人公達が生まれ育った村が帝国の侵攻に遭い、村から逃亡する最中に追っ手に襲われ、主人公達とその仲間は離れ離れになる、といった具合である。
次に、この仲間と再会する時は、帝国に立ち向かう主人公と帝国に寝返った仲間へと状況は転じる。作品内では、仲間が帝国に帰化する瞬間の描写は無く、その理由についても詳しく言及されていない。しかし、攻略本には以下のように記されている。

「ひとり取り残された彼は弱者のみじめさを痛感し、帝国の強大な力に魅せられて皇帝の配下に」

この記述は作り手が直接は描かなかった「動機の語彙」を、編集者が代弁した形となっている。
無論、編集者は、より多くの人が納得できるであろう動機を記したのであろう(恐らくその動機が、制作者が考えたものと同じであろう)が、プレイヤーがそれを是とする必要はないのである。作中で語られない事を、どのような動機を用いて自分を納得させるかはプレイヤーの自由である。
そうした事象の間隙にプレイヤーが想像を巡らせ、動機付けをする楽しみが、SFC以前(これは私的な体感だが)のソフトには多く散見された。

一方、FFⅩではどうだろうか。
作品の冒頭は旅の目的地寸前で、主人公がこれまでの旅を回想する事に始まり、それまでの経緯が詳細に描かれる事で物語は展開していく。
主人公の回想であるために、主人公が直接関与しない出来事は描く必要がないし、描けば逆に不自然となるであろう。
このようにFFⅩでは、Ⅱの様にプレイヤーが能動的に動機付けを行う余地はほとんど無い。出来事を結ぶ因果を作品が全て語ってしまうからである。
(主人公の父親達の旅は断片的にしか描かれないため、そこに想像の余地があるのは確かなのだが)

こうしたFFⅡ、Ⅹに見られる様な違いは容量の問題が大きく関わっている。ハードの性能が全く違う両作品を比較するのは、そもそも荒唐無稽かも知れないが、本文はいずれが優れているかを言及したい訳ではない。

ただ、現状としてシナリオとしての自由度が限定される中、システム的な自由度が拡大していく風潮があり、その流れに沿わない作品が希求されてもいいのでは、という思惑により、ここに私見を記す。

執筆:副代表フィジー

PR

Comment
Name
Title
Mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
[11] [10] [9] [8] [7] [6] [5] [4] [3] [2] [1
«  Back :   HOME   : Next  »
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新トラックバック
最新コメント
[07/09 とおりすがりの業界人]
[04/27 ミヤ]
バーコード
ブログ内検索
カウンター
忍者ブログ [PR]