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Game Trailersの「ホラーゲームTOP10」によると、最も怖いテレビゲームに選ばれたのはサイレントヒルであった。また、クロックタワー、零、バイオハザードもランクインしており、そのうち零とバイオハザードは上位に入っている。これらのホラーゲームは全て日本で生まれたものだ。
国内外で高い評価を受けている日本のホラーゲームだが、恐怖の対象はゾンビやクリーチャー、霊などと外国のホラーゲームのそれとあまり変わりがない。
それではいったい何が違うのだろうか。
動的、静的な怖さの違い、出血表現など色々違いはあるが、私は「主人公が持っている力の制限」がもっとも国内外のホラーゲームでの違いであると思う。
外国のゲームでは出てくる敵は持っている武器で殲滅するか、撃退する場合が多い。それが出来るのは持っている武器が強いからであり、敵を倒すことが比較的容易だからである。
一方、日本のホラーゲームでは「敵をやり過ごす、敵から逃げる」ことが主となっている様に思われる。敵が主人公より強く、容易に倒す事が出来ないためである。
クロックタワーはまさにハサミ男から逃げるゲームであるし、サイレントヒルも敵を倒しまくるゲームではない。バイオハザードは今では敵を撃っては殴り、撃っては蹴るアクションゲームになっているが、初期の作品では簡単にゾンビを倒すことが出来ないゲームだったので、しばしばゾンビから逃げる必要があった。零では敵である霊が無限に沸くため、ずっと戦っているわけにはいかない。
また、「プレイヤーがゲーム内で見れる部分の制限」も大きな違いの一つであり、重要な恐怖の要素だと考えられる。日本のホラーゲームではカメラアングルが固定されている場合が多い。これは上記の4つのゲームすべてに当てはまることである。不自然なカメラアングルはプレイヤーを不安にさせ、恐怖心を煽り、ゲームプレイの操作性にも影響する。ゲームは操作性が良いように作られるが、ホラーゲームでは逆に操作性を悪くさせる事によって、簡単に敵から逃げられないようにしてプレイヤーに焦りを感じさせることに成功している。
日本のホラーゲームでの恐怖の要素は、単なる見た目や突然化け物が現れる驚きだけではない。ゲームシステムなどの目に見えない部分や、気付きにくい部分での工夫がプレイヤーを恐怖させるのである。
文責:machi
物語を語る形式は数多くあり、古くは口頭伝承といったものであったのであろうが、ここでは、形式として新しい「ゲーム」における物語の語り方に対する考察を述べたい。
ゲームは物語を語るのには適さないメディアだと唱えられる事も多い。それは、ゲームにおいて「死」を描く困難さ、身体性の欠如が主たる要因となっている。ゲーム内の物語は、基本的にリセット可能なものとして描かれる。ゲームは、行動や選択の誤りによって、失敗、ゲームオーバーとなっても、最初から、またはセーブした地点等からやり直す事が可能なため、「死」という本来リセットできない事象を描くには相性がよくない。また、ドット絵やローポリゴンのモデルなどは主に記号としての属性が強く、感情移入を阻害しかねない点も、リアリティのある死をゲームから乖離させている。
しかし、上記に触れたゲームというメディアの特性を逆手に取り、物語を展開される作品が存在する。『YU-NO』『マブラヴオルタネイティヴ』などが、それに該当する。両作品ともアドベンチャーゲームのジャンルに分類され、多くの他作品と同様、物語が分岐し、複数の結末が用意されている。ただ、両作品の特色として、通常、主人公が認知できるのは1つの結末だけなのに対し、複数の結末、失敗いわゆる「バッドエンド」を含むそれらを、一貫した流れとして認識する点が挙げられる。
少し具体的に見ていこう。『マブラヴオルタネイティヴ』及び『マブラヴ』(以下、両者とも『マブラヴ』で統一)は、「エクストラ編」「アンリミテッド編」「オルタネイティヴ編」の三部構成から成り、アンリミテッド、オルタネイティヴ編では、時間軸、基本的な出来事が共通する。オルタネイティヴでは、エキストラ編におけるメインヒロインの、アンリミテッドではエキストラ編におけるサブヒロイン5人分の分岐(ルート)が準備されている。主人公はそれらの分岐を連続したものと捉える。また、アンリミテッド編ではいずれも主人公の死亡によって締め括られるが、オルタネイティヴの段階に至って、その自らの死さえ主人公は認識するようになる。その様子は、画面の前で勇者の死を客観的に眺めるPRGプレイヤーさながらである。
マブラヴの主人公は、自らの死すら身体性を感じられない状況下にあり、アンチテーゼ的にゲーム内の死を描いている。さらに同作品は、作品内のキャラクターの、ひいては自身の死に対し、主人公が身体性を見い出すことで物語が大幅に転換する。つまり、落命してもオルタネイティヴ編開始時の時間軸に退行するだけといった認識を改め、「生」の一回性を自覚する主人公の成長を物語のハイライトとして描いているのである。
前述したように、メディアの性質上、失われがちな身体的リアリズムを逆説的に利用した物語の展開は、ゲームという表現媒体が固有に持ち得た物語の語り口の1つと捉えられる。しかし、『YU-NO』にしろ『マブラヴ』にせよ、どちらもアドベンチャーゲームであるという点には留意したい。何故なら、アドベンチャーゲームである以上、テキストやアニメ調のグラフィックといった身体性を描き得る表現を多分に含み、純粋にゲームだけとして語りであった一概に断定できないためである。
執筆:副代表フィジー
どういった風に書いていったら良いか、未だによく分からないので、
とりあえず元々ある音ゲーのシステム(今回はポップン使用)と比較して、
いろんな点をあげてみたいと思います。
1. ボタンスピート調節機能が無い。
ポップンでは0.5の単位で0.5〜6.0HI-SPEEDまで、ボタンの落ちてくる
スピードを変えられる。これによって、GPMの低い曲でも、自分のやりやすいスピードに調節出来るのだ。
しかし、このゲームにはこの機能が一切なかった。
これなかったおかげでスローテンポの曲がやりにくくて仕方なかったです。
多分歌詞にボタンを合わせたせいだとは思うのですが・・・。
(ポップンはギターなど、曲の方にボタンを合わせている。)
ミクの楽曲がおそらく曲として以上に歌詞の方が重視されている為かなと
思われる。
2. ボタンを押すリズムがバラバラ
歌詞に合わせてあったり、曲の方に合わせてあったり、ボタン音が間の手になってたり・・・分かりやすさというかリズム感?重視でいった為なのか、
バラバラとボタンを押す流れが動いていた。
歌詞から曲になるのはまだ良いとして(ポップンでもたまにあるので)
間の手は、人によっていれるところが違ったりするのだから、
やっては駄目だろうと思う。
3. 曲によって最高スコアが違う
スコア何点いったからクリア出来なかったけど上達してる!とか分からないので、これはやり込み要素的に駄目だなと思いました。
4. ネット対戦とダウンロードコンテンツ
ネット対戦はともかく、通信対戦ぐらいは出来てほしかった!
これを入れていたら『ミクはオレの嫁』な人たちが(見てて面白い)
恋は戦争(という名の通信対戦)を繰り広げたと思う。
とにかく曲が増えないのがこのゲームの最大の難点だと思う。
曲数が元々多ければ問題ないと思うのですが、ゲームが発売されるまでに
ニコ動などにUPされていた曲数をみれば一目瞭然なのですが、
あきらかに少ない。
エディットモードで自分で作って好きな曲を増やしていけるのですが、
いかんせん難しいので、あまりこの機能を使っている人はいないようです(現に私も挫折した一人です汗)。
ダウンロードで曲増やせていけていたら、あんなに早くブームが去って行く事はなかったんじゃないかと思いました。
・・・ミクルーム分の用量、通信対戦とかに回せば良かったのに(独り言)
5. ミクの衣装かえ
これは素直に楽しめました。(ポップンとかだと2Pキャラにして遊ぶぐらいしかできないので)
曲クリア出来ないと着せ替え出来ないのも良いシステムだと思います。
6. ミクの動き
滑らかで良かったです。動きも可愛い。
でもちら見えするパンツが白なのはいただけなかったです。
ミクと言えばやっぱり縞パry←
最近自分がプレイしたゲームにDS専用ソフト「シグマハーモ二クス」(以下SH)というのがある。浜渦正志という個人的に昔から好きな作曲の方が参加しておられたので興味を持っていた。ただこのゲームは完全にクリアしたもののいまいち自分の感性には合わなかった。
それはさておいて、これも含めたゲーム音楽について話していこうと思う。
このゲーム、一つの売りとして音楽を前面に出していたのだが実際のプレイ中には音楽はそれほど記憶に残らなかった。少なくとも過去に氏が作曲を手掛けた作品ではこうはならなかった。
しかし、一度このゲームのCD音源を聞いてみると自分の中の評価は一変した。同じ音楽の筈なのに氏のいつもの作品の様に強く印象に残ったのだ。その要因として音質があるように思った。だがそれに対する反論がある。これはインタビューで氏が仰っていたことなのだがこの作品ではストリーミング再生、つまり内臓音源を使わないものになっていて音質はDSにしては良いものなのだそうだ。
確かに、プレイを一旦止めて音楽に集中するとCDと比べれば音質は下だが言っていることはなんとなくであるもののわかる。と、なればそれ以外の要因が考えられる。
その一つにゲームの媒体としての問題があろう。これは携帯ゲーム機以外もひっくるめて話すとまず、コンシューマ機、これには基本的に音のうるささについてあまり気にする必要がない環境において使う場合が多く、よってあらゆる形態のゲームでもっとも音楽の比重が高い、といえる。実際氏の作品もこれまではコンシューマ機でそれが印象に残っていた。
一方その対極、つまり最も音楽の比重が低い形態は恐らく携帯電話のアプリと思う。その証拠といってはなんだが携帯のアプリの音を出しながらプレイする人を自分は見たことがない。またこのゲームの形態は基本的にいわゆる「暇つぶし」を想定し比較的静かな場所でプレイし長時間集中させることをあまり想定していない筈だ。大体の場合周りがうるさかったり、逆にうるさくすることに気を使う場所であることがほとんどであると思う。その他アプリの音は貧弱で何度も聞く程の価値はないという先入観のためかイヤホンをつけながらのプレイもほとんど見たことがない。
で、その間にくるのは携帯ゲーム機だ。といってもイヤホンをつけながら、というのと付けずにプレイではかなり意味合いが変わるのでここは分けておこう。
前者では携帯のアプリとは違いあらゆる局面で音楽を聴くことが可能である。そのためかなりコンシューマに近いレベルで音楽の比率が高いと考えられる。ただ若干音質の問題とあらゆる環境で音楽を聞けるとはいえ移動中など場合によっては他の事に気を使わなければならない場合が多く、それらの要因のせいでコンシューマ機より低い、と思われる。
逆にイヤホン等をつけない場合。音楽を聴くにはコンシューマ機と同じ位の環境が必要になってくる。しかし昔ほどではないものの音を出すと問題になってくるのは電源の問題だ。そのためか家であろうが携帯ゲーム機で大きな音を出す人はほとんどいない。よってこの場合は携帯アプリより若干音楽の比率が高いものの前者と比べると大きく劣ると思われる。
最後にアーケードゲームだが、これは周りの環境のうるささ、といものが大きく、またゲーム自体がゆっくりさせて聞かせよう、というコンセプト自体が存在しない(選択画面中での制限時間など)ため音楽の比率としては高くないように思う。余談になるがかのメガドライブの名作「OUT RUN」の有名な「Magical Sound Shower」という曲、小さい頃の記憶に残っていたのだがいざこの年になってアーケード版の2SPでプレイしてみると周りのうるささなのか、ゲームに集中しているのか急かされているのか思ったより音楽が耳に入ってこなかった。
これらを踏まえると形態によるゲーム中の比重は
コンシューマ>>携帯ゲーム機(イヤホン有)>>>>>>アーケード>携帯ゲーム機(イヤホン無)>>>>携帯電話のアプリ 、人によっては若干違いがあるだろうがこんなところだろう。ちなみに自分はSHをイヤホンなしでプレイしていたため印象があまりなかったと考えられる。
音楽に集中できないもう一つの要因は媒体やその他外的要因ではなく先ほども挙げたゲーム自体の内容だといえそうだ。
このゲームは基本的にRPGなのであるが個人的にテンポは良いとは言えない。進めても普通のRPGとは違い行動範囲がほとんど、いや全くといっていいほど広がらないというのもある。そのため進めるのに若干のいらつきがある。また戦闘部分でもリアルタイムに進むため余りゆっくりしていられない。これらの要因からプレイヤーを急かし音楽をしっかり聞かせられないように思う。
ここで一つの比較対象として「ソニックラッシュ」(DS)(以下SR)を挙げてみたいと思う。このゲーム、アクションであり、やりこむ段階ならばレースーゲームに近くSHとは対照的で実にテンポが良い。ただゲームの性質上同じく急かされているにも関わらずこちらは耳に残りCD音源とあまり印象は変わらなかった。ストリーミング再生でもなく、DSの内臓音源を使っているものなのに。その違いは、となると。
サウンドテストの存在、SHにはなくSRにはあったものだ。断定は良くないが普通これがゲームに搭載されているならば殆どの人は少なくとも一度は使うであろうと思う機能だ。
これで聞くゲーム中の音楽に効果音を排除できるのはもちろん、ゲーム中では聞けない曲の終盤が聞けたり、曲のアレンジがある場合その比較が出来る。この3つ、音楽を印象付けるという意味ではプレイヤーに対してかなり大きな意味を持つものと考えられる。個人的には3つ目が特に大きい。
もともと自分が氏の作品を好きになったきっかけが「Sa・Ga Frontier2」におけるアレンジの多様さだったのでそれがより拍車をかけた、というのが少なからずあるのだが。
最後にはやはり曲自体の問題になろう。SRの音楽は長沼秀樹という「Jet Set Radio」シリーズなどを担当しているテクノに定評がある作曲家が担当している。
テクノというジャンルがゲーム自体のテンポと親和していた、というのも大きいがやはり携帯機で聞きやすい軽くてノリのいい、そしてキャッチーな曲というのがあるだろう。
対してSHでは少々重い感じの曲調が多く、また携帯機ではきれいな音を出すのが難しい、
(特に重低音)にも関わらずピアノその他高い音質を要求する(と思われる)音源を使っていたのが多かった、というのも大きいのだろう。
これらのことからSHが売りにしていたはずの音楽はシステム面、媒体選択など、あらゆる要素との不和を引き起こしていたと考えられる。
CDから聞いた曲自体は氏の作品らしさを感じ自分も満足したのだが…
その他の要素のせいで音楽も評価されないというのは非常に残念な話である。
まあ、かといって大抵の場合音楽はゲームに対して親和「させる」方であって
音楽中心になりすぎるのもまた問題なのだろう。
音楽って基本客観的な見方がしにくいからこういうのを書くのが難しい…
文責:ジャーキー
ハードや作品にもよるが、1フレームは1/60秒と1/30秒が主流。最近では前者。またPCタイトルの場合は、処理落ちを防ぐためにいずれかを選択できるものも多い。
1F 0.016666...秒
2F 0.033333...秒
3F 0.05秒
5F 0.083333...秒
となり、たった1Fの差でもゲーム性は大きく左右されてしまうのだ。
(ここでよくある誤解を。例えばフィルム映画は毎秒24フレーム(コマ)、アナログテレビは毎秒29.97フレーム(コマ)と言われている。つまり、1秒間に30枚程度の静止画が表示され、まるで動いているかのように人に錯覚させるということだ。
とはいえ、これはテレビジョンのみにおける表現に過ぎない。撮影される段階においてそういったことを気にするのだけど、実のところこれらの映像はすべて60fps(frame per second)(毎秒60フレーム)で流れている。らしい)
さて、キャラクターのアクションは、基本的にすべてこの流れで成立している。
発生>持続>硬直>硬直差
・発生 コマンド入力完成から攻撃判定が出るまでの時間。
・持続 攻撃判定が出ている間の時間。
・硬直 攻撃判定が消失してから動けるようになるまでの時間。
・硬直差 技を最速で通常ガードさせた場合の「自分が動けるまでの時間-相手が動けるまでの時間」(格ゲーの場合)
硬直差がマイナスの場合相手が、プラスの場合自分が先に動けるようになる。
つまり「+2F」の技であれば、ガードさせた後に自分の方が2フレ早く硬直が解けるのだ。したがってこの技は「ガードさせて有利」ということになる。良い言葉だ。感動的だな。
逆に大振りの技の中には「-20F」なんてものがあって、これはガードされると相手の反撃を確実に喰らう。つまり「反撃確定」(略して「反確」)の技ということになる。反確の技をポンポン振ると、想像を絶する悲しみに包まれることになる。
小パンチは発生が速く、持続は短いものが多く、硬直が短い。硬直差は(+2~-3)くらいであり、ダメージは小さい。出てくる当り判定(攻撃判定)は小さい。
大パンチは発生が遅く、持続は長いものが多く、硬直が長い。硬直差は(-5~-20)くらいであり、ダメージが大きい。出てくる当り判定(攻撃判定)は大きい。
およそこんな感じだが、例外は勿論ある。
これを表記すると、例えば……
中パンチ > 発生10 持続2 硬直11 硬直差+1
といった感じである。
敵にガードという概念がないゲームにおいても、相手が攻撃を喰らっているモーションというのが必ず存在する。
その硬直が解けるまでの時間――つまり硬直差は、細かく設定するべきだとぼくは思う。
また、例えばアクションゲームにおいては「斬り」「突き」「殴り」「蹴り」「必殺技」のように、攻撃手段がいくつかに分けられていたりする。
とはいえ、「必殺技」を出していればとりあえず勝てる。あるいは、「殴り」が強すぎて他のコマンドを入れる必要性が皆無――みたいなことになってしまえば、ゲームとしては三流であり、戦士としては二流である。
そういった際に、当り判定やフレームの部分で差をつけると幸せになれるかも知れない。
アクションゲームにおいて最も重要なのは「操作感」である。
そして、フレームの話を差し置いてこれを語るのは不可能なのだ。
inozi
『CROSS † CHANNEL』( 2003/9/26 FlyingShine )を認知心理学で読み解く
※核心に触れるネタバレがあります
まず初めに示しておくのだけど、私は精神分析的に、あるいは認知心理学的に物語を解釈するということを、前に取り扱った作品と同一のシナリオライター「田中ロミオ」(旧名義「山田一」)に対しおこなう。また過去出されたエロゲの中でもトップクラスに評価の高いこの作品と、そのシナリオライターである田中ロミオが、それ以降のサブカルチャー全般へ与えた影響は計り知れないところがあり、今現在における一つの潮流を作り続けているということも事実として付け加えておこう。
では、この物語をなるたけ端的に説明したい。舞台は現代日本。ある時期から精神に異常をきたす少年少女が急増し始めた。主人公「黒須太一」を含む八人の障害者たちは、実質的な隔離施設である群青学院の放送部メンバーであった……がしかし、やがて彼らは個々の持つトラウマ(そのことを彼らは「群青色」と呼ぶ)を元に傷つけあい、その関係を破綻させてしまう。そうした状況に置かれた太一は、SF的に別世界(一週間単位でループする世界)を観測し、放送部メンバーをその世界へと連れ込んでしまう。生物のいない閉じた世界。繰り返される一週間。その中で仲間たちとふれあい、衝突し、そして和解してゆく。最終的に太一は、仲間を元の世界へと送還する一方で、たった一人。自分だけは、別世界に残る決断を下す。
一般に評されるところと言えば、たとえば「プレイヤーは感情移入を拒絶されながらも、一方で物語に引き込まれてゆく」 「断片的に飛び出すキーワード、不可解な行動。それはミステリーや伝記物のそれとは違い、純粋に違和感」 「人を貶める、けなすような表現の多さもそうだが、とにかく主人公の言動が問題。とにかく下ネタのオンパレード」 「ロリコンは病気です」といった次第である。また量子力学における観測問題などを用いているところから、世界解釈やその他さまざまな問題について、多くの論争が為されている。……のだが、さて本論においては、プレイヤーに対する情報の与え方――とりわけ自己投影の対象である主人公「黒須太一」との間に置かれた情報格差、という観点から論じていきたい。
いきなり逸らすが、時系列に沿って物語外の情報からいこう。発売前のデモムービーと体験版、そして本編におけるOPムービーである。まずデモムービーの段階で、既にある仕掛けが為されているのだ。というのも、このムービーは初めダークな電子ベース音と暗い画で始まるが、少しすると突然青空のパンアップと共に軽快なメロディが流れ始める。情報を段階的に示すことで、後者の情報(この場合は嘘)に信憑性を持たせる手法である。また体験版の途中では、いきなり場面が学院の廊下へと飛ばされたかとおもうと「世界は滅亡してしまったのだ!」などと太一が言い出し、なぜか登場したヒロインが「じつは、このパートは未実装なのです」 「……んー、エヴェレット解釈ってしってますます?」などと言い始め、そのうち「本編には収録されないから、パロディ盗作しほうだい!」といったメタくさいネタが展開されてゆく。この辺りを見て『CROSS † CHANNEL』をギャグゲーと勘違いした人間も少なからずいるようである。しかしおどろくべきことに、物語の核心となる部分、最もネタバレとなってしまう一部分に関しては、上にある台詞の通り、なんとこの時点で語られているのである。他にはたとえば、そこに「ごめんなさい先輩……自分がすごくかわいいので……」というヒロインのセリフもあるのだけど、これは他人に対する共感が欠落しており、常軌を逸した深い自己愛を抱えた彼女の「群青色」を示す伏線となっているのだ。では実際にゲーム本編で流れるOPムービーの方はどうなのかというと、こちらはピアノによるニューエイジ風ミュージックと共に学院の風景が延々流されるという、おそろしく淡白かつ無機質なものとなっている。これは真に物語を(ぼかした状態で)意味していると言えよう。ここに至ってもなおこの作品をギャグゲーだと考えている人間は、そういなかったはずである。そうした度重なる情報の書き換えによって引き起こされる、違和感と再認識。そして文章の秀逸さも相まって、プレイヤーは物語世界へと引き込まれてゆくのだろう。人によっては、前半を退屈だと言ったりもするのだけど。
次に、太一とプレイヤーの情報格差についてである。太一は自らのトラウマを知っているが、プレイヤーはそれを一切知らない。だから登場人物が時折なにやら意味深な発言をするが、プレイヤーにはそれがなんのことを言っているのかさっぱり判らない。そうした純粋な情報はもちろんそうだし、それどころか太一のモノローグ自体が、もう理解の範疇にあるかどうかあやしい。冒頭からして太一は、自分が住んでいる街のことを長々と語り出す。ようやく女の子が登場したかとおもえば、結局それは太一の妄想に過ぎないらしい。その後エロゲーよろしく日常描写が開始されても、太一の脳内は意味不明な言葉と下ネタでいっぱいである。さらには登場した幾らかの人々が、実のところ太一の回想や妄想の中にしか存在していなかったりするのだ。二十歳にも満たない太一のお母さんが出たり消えたりパンチラしたりと、もはや現実と夢の区別さえ付かない状況である。極めつけがこれだ。作中の白と青を基調とする淡白さに反して太一は、赤い血を見ると突然発狂し、なにやらヒロインを犯したり殺したりしてしまうのだ。そうしてプレイヤーは、太一との同一化を強烈に拒まれてゆく。こういったところが「この作品は人を選ぶ」と言われる所以である。
さて、このゲームには徹頭徹尾、上で述べたような拒絶があるのだけれど、しかしループする一週間をくりかえす内に、当然ながら少しずつ太一やヒロインたちの過去、そして「群青色」が明かされてゆく。ここで重要なのは、太一の持つトラウマの性質である。そこにはちょっと御都合主義っぽいところもあるけれど。……つまり、太一は幼少のころ屋敷で飼われており、そこにいる大きなお友達によって輪姦されていたということである。したがって彼はどこか乖離性同一性障害(多重人格)のようなところがある。少なくとも二面性。また、彼は人間として成立しておらず、言うなれば化け物が人の皮を被って生きているような存在なのである。外から見て正常であるとき、太一はいつだって人間に「擬態」しているのだ。彼は人が笑うのを真似して、適当な場面で口角を吊り上げているに過ぎない。その「群青色」が解消されるのは、物語のラスト。仲間たちを元の世界へ送還したところで、初めて人間になれるのだ。太一は、世界でたった一人になり、そこでようやく普通の人生を獲得できるのだ。……といったところなど、たとえば精神分析的に見て、疑問に思わないこともないのだけど。とかくそうした終盤に来て初めてプレイヤーは「ああ、太一ほどではないにせよ、自分にも原初的にこういったところがあるなあ」として、自己を投影してゆくのだ。この時点で、ようやっとプレイヤーは懸命に生きようとする太一の姿がいかにすばらしいものであったかに「気づき」、胸をいっぱいにするのである。全体として情報の流れは、序盤が舞台設定、中盤がヒロイン、終盤が太一と分かれているが、やはり終盤に近づくほど重大な情報が集約されている。というのは、たとえば中途における通称「ロミオ節」が、終盤に至ってから改めてプレイヤーに認識され、その効力を最大限に引き出すためである。確かにあやしいところはあるけれど、それをさしおいてもすばらしい。以下にロミオ節の一部を記す。「友情は見返りを 求めない」 「強くならないと生きる資格がないわけじゃないから 弱いままでも、いいんだよ」 「人生は難しいですこんちくしょうという感じです」 「自分の心を、他者に仮託するな!」 「私は太一が人だとは思ってないもの 太一は太一。私にはそれで十分。そして私も私。二人で一人」 「自分に生きる資格があると思っているんですか?」 「人間は本質的に一人だ。一人で生まれて、一人で死んでゆく」 「生きている人、いますか?」
最後に、本編の後における物語外の情報を二つ挙げる。一つ目はEDテーマの『CROSSING』である。極めて珍しいことにこの曲は、作詞をシナリオライター(この場合は田中ロミオ)が担当しているのだ。「絶望で良かった 虚無だけを望んだ」から始まり「世界と自身とを分かつ壁は 人を象り閉じ込める檻」「そしていつかは寂しさから手を伸ばし 優しく傷つけ合って」とつながってゆくこの唄は、物語全体を俯瞰するにふさわしいと言える。なんという気合の入れよう。二つ目は『トモダチの塔』というシナリオ(※1)である。ここでは太一の発狂がさらに酷い。楽しく会話しているかと思ったらいつの間にか殺しているし、殺した先輩が妄想でいきなり妹になっており、しかもその死体を自転車の後部座席へ縛り付けると、二人仲良く登校してしまう。一方で生きている人とは言語ゲームを成立させられず、ただ一週間前の台詞を機械的に発していたりする。そのうち犯してから殺したのか、殺してから犯したのかも判らないまま「トモダチ」にして、死後硬直した肉体をもって放送用のアンテナを組み立てたりしてしまう。これがいわゆる『トモダチの塔』である。とはいえ、すべてを知った上でこのシナリオを読んだならば、人は過激さの裏にある潜在的な意味を与えることができるだろう。
※1 公式設定資料集に掲載された、本編未収録の没シナリオ。おそらく、ループする一週間の内のひとつが描かれている。時系列としてはさして終盤でないにもかかわらず、物語の核心を突くようなネタバレがひどく、残酷な描写も熾烈を極めるため除外されたと思われる。プレイヤーに与えてはならないと判断された情報であろう。
文責 : inozi
(以下、レポート用に書いたものを転載)
末莉好きだあああああああああああ
かわいいよおおおおお末莉かわいいよおおおおおおぉぉぉぉぉ
18禁ハートフルコメディーアドベンチャーゲーム
『家族計画』(2001/11/2 D.O.)を精神分析で読み解く
さて、このエロゲーには【川原末莉】という、外見上明らかに小学生程度のキャラがいる。彼女は幼少のころ両親を亡くし、引き取られた親戚の家では性的なものを含む嫌がらせを受ける。やがて逃げるように家出をし、ダンボールハウスの達人ホームレス少女となる。それが【高屋敷末莉】として四女を演じることとなるのである。
そんな末莉に対する一般的な見方、および彼女の設定として挙げられるのは、「すぐ転ぶドジっ子」「いらん子」「親切な良い子を越えて度が過ぎた献身と自虐ぶりを見せる」「萎縮した卑屈な態度ばかりを取る」「叩かれても叩かれても笑顔な性格」「誰にも愛してもらえなかった為、人の役に立たなければ誰も好意を与えてくれないと思っている」「ロリコンに目覚める」といった次第である。
末莉は悲惨な過去を感じさせない明るさと、底なしの行動力でたくましく生きている。そしておもうのだ。末莉は自分というものを確立してゆく上で、後に述べるような、ある種突き抜けた生き方を選んでしまったという、これもある種の失敗があるのではないか。またそれらは、彼女自身のヒューマン失格ばりに強力な自己愛と自己陶酔に基づいているのではないか。そうかんがえた。
シーン1。高屋敷家の長女役演じる【高屋敷青葉】が生きる上ですがっている祖父の形見――すなわち高屋敷の家屋そのもの。その柱に対し、末莉が料理のスープを溢して汚してしまう一幕である。ここで一つ挙げておくべき前提として、その事件が発生する前、末莉は青葉にたいして「青葉おねーさんっ♪」と呼びかけてしまうことで大目玉を食ったという事実がある(ちなみに青葉と主人公の2人は、すくなくともこの高屋敷においては、家族としての責任や繋がりに否定的である)。柱を汚してしまったときの末莉の心理としては、家族にように自分を愛し、叱って欲しいという願望、自分を否定した青葉に対して仕返しをしてやりたいといった気持ち、嫌われたくない捨てられたくないといった恐怖などが、通常考えられる。末莉はとても可愛くて賢しい子なので、自分というものをかなり理解し、この辺りを自覚した上での行動なのではないかと私は推察する。さて、より深く追求していこう。これが「青葉を傷つけたい。でも実際にやってはならない」といった葛藤による錯誤行為であるというのは無論だ。加えて、ここで末莉は「自分はこれで絶対に正しいんだ」といった自己暗示の効果をも期待しているのではないかと考えた。つまり、自分と同様家族環境に恵まれなかった青葉や主人公がひどく世間擦れしている姿に、自分の隠している負の面や、見たくない部分を重ねてしまっているのだ。それを覆い隠すようにして歪んだ明るさを装い、曖昧な攻撃をする。また、なにか失敗を起こした際の彼女の反応というものは、とにかく謝っとけという立場に近い。これは一種の「キレた」状態である。「私は無価値な疫病神ですーっ! 吊るしか、吊るしかないんですーっ!」などと言っては、人の話をほとほと無視してしまうのだ。自分を愛し、享受し、強く肯定しなければならないが故に、彼女は幾度もそういったミスをくりかえし、その度に周りからフォローされつつ、しかし意見を変えないのである。たとえば「愛されたい」だけでは、賢い末莉にとってこれは説明のつかない行動なのだ。そうであれば、もっと効率的な手段を取ればよい。過度な献身の所為で、少なくとも青葉と主人公には嫌悪感を抱かれてしまうのだから。そして一方、別な場面でも悩んでいるように演じてみせているけれど、実のところ末莉自身は、理想自我そのものと設定している自分をどう周囲に納得させるか、どう認めさせるかという簡単なかんがえに基づいて行動しているフシがあるようにおもう。この場合そこに葛藤、およびコンプレックスはない。逆から辿ると、複合した感情を自分からアピールしている時点で、その感情は意識下に抑圧して存在しているワケではないのだから。ゆえに彼女の無意識として注目すべきは、たとえば「演じている自分を倒して欲しい」といった方向の、甘えなのかも知れない。
シーン2。柱を汚してしまった後、雨の降る外に飛び出し、空き地の土管へと逃げ込む場面である。この行為において末莉は、主人公らがホームレス生活を送る際に利用した共通の場所――空き地へと逃げ込むことで、みんなから発見してもらおうという意図を見せている。
シーン3。末莉が誤って青葉に熱いお茶をぶっかけてしまうのだ。なんとわかりやすい攻撃、錯誤行為か。そのおかげで青葉は軽度の火傷を負ってしまうのだが、しかもここでまた、末莉は走って逃げ出してしまうのである。火傷の心配をするでもなく、ちゃんと謝るでもなく、何にも優先して逃走を選択するのだ、この娘。そうして主人公サイドは「末莉を心配する」「青葉を心配する」という二択を迫られる事になる。末莉と青葉の、どちらがより必要とされているか。愛されているか。上位にいるか。それを周囲にいる人間の客観的(社会的)な立場から確たるものにしてもらいたい。その試したいという気持ち、どちらが上かという気持ちを消化するために、敢えて青葉から物理的な距離を置いたのだ。
シーン4。ファンディスク『家族計画~そしてまた家族計画を~』より、脇役ヒロインが末莉、および主人公と同衾をしようという場面である。ちなみに、このファンディスクは末莉ルート(主人公と末莉が結ばれた世界)のアフターストーリーとなっている。その場面において末莉は、床の上で普段と若干異なる態度を取り、というか淫乱になり、主人公とその脇役からイニシアチブを奪うのである。また以前から、基本的にはいつも主人公が優位に立って事に及んでいたという事実があり、毎回がそうであることに対して末莉は軽い抵抗を覚えていた。そして何より、そのとき末莉は無意識に嫉妬の感情を押し殺していたのだ。これらはシナリオにおいて明言されている。そういった感情が複合して、攻勢に出るという錯誤行為が現れたのだ。
シーン5。これもファンディスクより、主人公と末莉が橋の下でいちゃいちゃするシーンである。ここの前提として述べる必要があるのは、家族計画本編において、主人公は末莉を救うために片目と片腕の機能を大幅に失っているという事実だ。その日、主人公は片腕が痛むことを隠していた。しかし渡された缶ジュースを取り落としてしまうことから、末莉に腕が痛むことを気づかれてしまう。しばらく経った頃に、一方の末莉は恐縮するでもお礼を言うでも……はたまた感情のおもむくままに振る舞うでもなく、ちょっと考えた。そして何も言わなかった。かわりに、にぱっと笑った。そのときに発した、主人公が金言を聞く思いで耳にした末莉の台詞を抜粋すると、以下の通りである。「前のわたしだったら、恐縮してすまながって、嫌われないか捨てられないか……ただびくびくして」「でもこれからは、与えられたものに、感謝しようと思うのです」(中略)「ただ自分の今に、どれくらいのものが支払われているのか……それだけは、忘れないようにしようと思ってます」「ですから、ずっとそばにいたいと思います」この下りからして、以前の末莉が確かにコンプレックスを持っていたことが判る。それと同時に、彼女が自分のことしか考えていなかったということも。
他にもこの『家族計画』という作品の中には、「全部、許す」という言葉で感動の演出をしたり、人間関係のすべてを金銭における「契約」という形にして逃げ回るキャラがいたり、果ては老衰で死んだ主人公の精神がモノローグを語るなど、精神分析や、また別な解釈を行うに十分足る要素が散りばめられているのだ。というか、むしろそうして構成されている可能性も否定できない。したがって私の述べた解釈は、まったくのご都合主義に過ぎないというワケでも、ないのである。
追記:
クロスチャンネルにおけるミキミキが「です、ます、ございます」であり、自己愛を群青色としていることも、示唆的じゃないかとおもうんだ。
ロミオが意識的にそうしたか、無意識的にそうしたかは定かではないけども。
あと、このレポートではフロイトの錯誤行為云々のことが主に求められていたという事があり、したがって、例えばラカンとかの話に関してはほとんど触れていない。たぶんもっと突っ込んで語れる気がするよ
すごいよロミオ
文責 い
というのも、一般大衆(ぼくも含め)は特に格ゲーやSTG、音ゲー、FPS、SLGあたりの面白さを、知らぬ内に投げ捨てている気がしてならない。
ゲームの中身はすばらしいのに、その見せ方が悪いために、プレイヤーはそのすばらしさに気づく前にゲームをやめてしまうわけである(結果としてゲームが悪いということになってしまうわけだが)。
ぼくが格ゲーを好きなのは、勧めてくれた友達が色々とおしえてくれたからだ。
そして攻略サイトや上手い人のプレイ、動画から学んだからだ。
間違ってもゲームプレイ中に自然と学んだわけではない!
今回は悪い見せ方とか、その辺のことをちょっと語ってみるよ。
まあその……これはフロー理論というか、ゲームニクスにおける段階的学習効果というか、普通のシナリオ創作における構造原理であるとか、何かそーいったものに関連づけできそうなかんじであるワケだけども。
とりあえず、具体的にゲームの話でいこう!
できるだけ!
自明のことであるけれど、作り手はゲームの「ルール」をプレイヤーに理解させるために、段階的な学習をさせる必要がある。
それはチュートリアルだとか、説明書から始まったりする。
では、ドラゴンクエスト1を例に挙げよう。
まず城の中で宝箱の開け方、階段の降り方などを学ぶ。
城下町に下りると、「ここは~~~の町だよ」「武器は装備しないと意味がないよ」などと、リアリティを考えると正直まったく意味のわからないことを町人がペラペラとしゃべる。
後半になるにしたがって、強力な武器や魔法を覚えてゆく。
そんなこんなでプレイヤーは操作方法やアイテム、魔法の種類なんかを色々と覚えていくわけである。
また通常、真っ当なルールは複雑化すればするほど面白いものだ。
つまり、
インベーダーゲーム<ゼビウス<スターフォース<サマーカーニバル烈火<東方
ストリートファイター<ギルティギアイグゼクス
ドラクエ1<ドラクエ2<ドラクエ3
といったかんじで、ゲームはこれまで複雑化をすすめてきた。
そして最近は、より複雑化したルールを冒頭のチュートリアルですべてプレイヤーに叩き込むことで、最高につまらない駄ゲーが量産されていたりする。
この点で言うと、ネトゲにはクソが多い? たぶん。
基本、自由に世界を歩けるから、段階的な説明がしにくいのだろうか。しかしもうすこし考えてもよかないですか。
まあ、まあ。
そうでなくても、作り手はプレイヤーの意識を介入させないよう段階的学習をさせなければならない。
さて、以上のことを踏まえた上で、格ゲーを例を挙げよう! さらに言うと、コンボゲーで。
ここに断言する。コンボゲーはおもしろい。
ただし!
ルールの教え方が完全に間違っている!
キャラのコマンド表が提示されており、「あっ、技が出た~」なんてものだけでは、現代人の磨かれた感性を満足させることはできない。
具体的に言うと、チュートリアルを望むプレイヤーと、そうでないプレイヤーとでまず分割する。前者にはプレイの最中にさりげなくチュートリアルを組み込んでおく。
例えば包括的に「練習モード」なるものを作って、参考書や学術書のように機能させるとか。
すくなくとも、コンボのレシピ程度はプレイ中に案内するべきである。
画面内に表示させておいて、それが成功したら「やったね!」って言ってくれるとか。
失敗したら「1回目のジャンプキャンセルは、もうちょっと早くレバーを↑に入れとくといいよ~」とか、「今のはB>Cが、B>B>Cになってたね! Cの連打を始めるタイミングは、もうすこし早く~」って言ってくれるとか(表現が低俗なのはご勘弁)。
その後は……
起き攻めのやり方、ガードの仕方、下段技と中段技の分け方、技や打撃の詳しい効果や使い所などを誘導する(ここまでやる必要があるとおもう)。
それはまるで、数1の教科書から数3の教科書へと移るように。
そこから先のキャラ対策や駆け引きなんかは、もう要らないとおもうけれど。
代数学やらなんやらのややこしい学術書は、学びたい人だけが書店に行って探せばいい。
概念をまとめると、
ゲームをたのしむために最低限必要な技術は、そのゲームプレイ内ですべて誘導しなければならない。
ということだ。
ここで、「ゲームをたのしむために最低限必要な技術」を明確にする必要があるとおもわれる。
また、学校教育においてこれは主に教員の役目となるわけだが、ゲームでも「こんな技術を使ってこーゆう風に戦えるようになると、対人戦がこーなって最高におもしろいよ!」といった目的の提示も必ず必要である。
それはきっと映像で見せるといいよね。
余談だが、数学は「パズル感覚でおもしろい」だけではない。
「あ~ここでこの公式を使わせて、ここで3つの単元を同時に重ねて応用できるかを試しているな? フハハハハ!」と問題作成者の意図を読み解くところに、大きなカタルシスがある。
当然、思索するという哲学的なおもしろさもある。
こーいったことも教えた方が、数学がたのしくなるよね!
しかも「パズル感覚で~」は小学生に。「哲学~」は中学生、「問題作成者の意図を~」は高校生にと、段階的に提示できるといいんじゃないかなあとおもう。
ぼくらがプレイヤーの立場に立ったとき、これら大変なゲームは、開始前に攻略Wikiなどをしっかり読んだり、上手い人のプレイを見てから(がんばって)プレイすることで、よりたのしみやすくなるだろう。
そういったストレスに耐えなくてはならないのが、現状なのだよ。
ザクとはちがうのだよ……
そして、とりあえずゲーセンに行ってみるといいかもしれない
きっとほとんどたのしめない
というのも、最低限のルールさえ明示されていないからである
あなたの友人がルールを提供してくれるというのなら、べつだが
文責 い之字
今回はゲーム内(主にRPG)の「物語」に焦点を当ててみたいと思う。
そもそも物語が成立するとはどういう事なのであろうか?
アメリカの社会学者ライト・ミルズの言葉を借りると、「動機の語彙」によって事象が繋がっている状態と簡潔に述べる事が出来る。
「動機の語彙」とは、何らかの行為を説明する際に用いる理由の事である。
例えば、「ある男が小学校教師になった」という事象があったとする。この男がその行為に至った動機はいくつか挙げる事が出来るだろう。
その男は子供が好きだから、あるいは、その男は実はロリコンだからといった具合である。
ここで留意して欲しいのは、「動機の語彙」とは社会的に構築されるものであるという点である。つまり、共同体や時代等の違いによって、同じ行為であっても説明に使える理由は異なってくる。
先程の例に基づくなら「子供が好きだ」という説明は、わりと普遍的な説明であろうが、「ロリコンである」という説明は、例えば戦前や明治維新期には、社会的に納得し得るものとは成り得なかったであろう。
話は少し脇道に逸れるが、納得し得ない動機を「ご都合主義」と称される事が多々見受けられる。この言葉は、「デウス・エクス・マキナ<機械仕掛けの神>」として表される事もある。
(本来、「デウス・エクス・マキナ」とは演劇における演出技法の一つであるが、本文では、今日多用されている広義の意味合いで用いる)
「機械仕掛けの神」という語意が個人的にはとても興味深い。
物語として最も古いものの一つとして「神話」が存在する。神話は、古代の人々が「動機の語彙」を、人為的な動機のない自然現象にまで流用した結果と云っていいだろう。
「雷」一つを例に取ってもゼウスやトールの怒りだったり、妖怪の類の仕業だったり、様々である。
「動機の語彙」は「神」という語と親和性が高いように思う。物語の書き手、つまり創造する主体を「神」と呼ぶ風潮も、こうした流れを受けてのものかも知れない。
さて、前置きが長くなったので、話をゲームに戻した上で、一つの疑問を呈したい。
ゲームでの「物語」を作るのは作り手(神)だけでなのだろうか?私見ながら、答えは否である。
例えば、あるボスキャラを倒した時点を切り取って考えてみよう。
その際の登場人物(パーティー編成)、装備品、所持アイテム、戦闘での行動と所要時間、それらが他者と同一になる可能性は無に等しい。
ゲームをプレイする事は、消費者それぞれが違った「物語」を形成しているのだ。そのため、用意される要素が多ければ多い程、多様な「物語」が織り成されると云える。
しかし、本文によって指摘したいのは、そうしたシステム上での行為が多様化していく中で、いわゆるシナリオとしての意味合いでの物語が、プレイヤーにとり、受動的になってきている現状である。
ファイナルファンタジー(以下、FF)シリーズを例としよう。
FFⅡでは、最初の戦闘において強力な敵に全滅する事を余儀なくされ、仲間の一人がこの時点で離脱する。
状況を描写すると、主人公達が生まれ育った村が帝国の侵攻に遭い、村から逃亡する最中に追っ手に襲われ、主人公達とその仲間は離れ離れになる、といった具合である。
次に、この仲間と再会する時は、帝国に立ち向かう主人公と帝国に寝返った仲間へと状況は転じる。作品内では、仲間が帝国に帰化する瞬間の描写は無く、その理由についても詳しく言及されていない。しかし、攻略本には以下のように記されている。
「ひとり取り残された彼は弱者のみじめさを痛感し、帝国の強大な力に魅せられて皇帝の配下に」
この記述は作り手が直接は描かなかった「動機の語彙」を、編集者が代弁した形となっている。
無論、編集者は、より多くの人が納得できるであろう動機を記したのであろう(恐らくその動機が、制作者が考えたものと同じであろう)が、プレイヤーがそれを是とする必要はないのである。作中で語られない事を、どのような動機を用いて自分を納得させるかはプレイヤーの自由である。
そうした事象の間隙にプレイヤーが想像を巡らせ、動機付けをする楽しみが、SFC以前(これは私的な体感だが)のソフトには多く散見された。
一方、FFⅩではどうだろうか。
作品の冒頭は旅の目的地寸前で、主人公がこれまでの旅を回想する事に始まり、それまでの経緯が詳細に描かれる事で物語は展開していく。
主人公の回想であるために、主人公が直接関与しない出来事は描く必要がないし、描けば逆に不自然となるであろう。
このようにFFⅩでは、Ⅱの様にプレイヤーが能動的に動機付けを行う余地はほとんど無い。出来事を結ぶ因果を作品が全て語ってしまうからである。
(主人公の父親達の旅は断片的にしか描かれないため、そこに想像の余地があるのは確かなのだが)
こうしたFFⅡ、Ⅹに見られる様な違いは容量の問題が大きく関わっている。ハードの性能が全く違う両作品を比較するのは、そもそも荒唐無稽かも知れないが、本文はいずれが優れているかを言及したい訳ではない。
ただ、現状としてシナリオとしての自由度が限定される中、システム的な自由度が拡大していく風潮があり、その流れに沿わない作品が希求されてもいいのでは、という思惑により、ここに私見を記す。
執筆:副代表フィジー
◆ 前書き
日本製ロールプレイングゲーム(以下RPG)の双璧の一つに数えられるファイナルファンタジー(以下FF)シリーズにおいて、システム面でとりわけ異彩を放つ二つの作品がある。それがFFⅡとFFⅧである。
後にFFⅡのシステムは「サガ」シリーズへと引き継がれるが、FFⅧのシステムを踏襲した作品は未だ登場していない。
しかし、FFⅧもⅡのように、他シリーズとして確立するほどの可能性を秘めているのでは、という疑念が、FFⅧの特色を分析しようと思わせる契機となった。
◆ ⅡとⅧの特異性
FFⅡ、Ⅷが他のFFシリーズと異なる共通点として「レベル制」を廃止した事が挙げられる。しかし、正確にはⅧにはレベルアップの概念自体は存在する。Ⅷはキャラクターのレベルに応じて、敵の強さが変動する「レベル連動制」を採用しており、単純にキャラクターがレベルアップした事が、戦闘を優位にする要因とならないため、事実上「経験値レベルアップ制」が廃止されたと捉える。
◆ 一般的なRPGの特色
ドラゴンクエスト(以下DQ)シリーズを初めとした、一般的なRPGの諸要素を図解すると、図1のように表記することができる。
戦闘という要素に端を発し、能力値の上昇や魔法等の習得といったキャタクターの成長へと至る。成長したキャラクターは以前よりも強い敵と戦い、アイテムや装備品もより強力なものへと変化していく。こうした戦闘と成長のステップアップはストーリーと連動し、プレイヤーはゲームに熱中していく。
この過程は、スポーツに似た構造を持っていると解釈できる。練習を繰り返し、成長を遂げる選手が、試合に勝ち抜いていき、優勝を目指すように、DQなど多くのRPGでは、戦闘を繰り返し、成長を遂げるプレイヤーは、数々のボスを打ち倒しながら、エンディングを目指している。
◆ FFⅧの特色
では、FFⅧの諸要素はどのような図式になるのか、それを表したのが図2となる。
FFⅧでは、他の作品、シリーズと異なる点が多々あり、主立つものは以下の通りである。
・主人公達のレベルに応じ、同じ敵でも強さが変化する。
・魔法は習得するのではなく、入手、所持、消費、装備するものである。
・戦闘によりお金を入手する事はできず、主人公の傭兵としてのランクに応じ、定期的に給付される。
・装備品は武器1項目のみであり、着脱はできず、「改造」によって性能を増していく。
以上の項目と図2から導かれる結論は、FFⅧは戦闘による成長要素でプレイヤーを惹きつける造りとなっていないという事である。FFⅧにおける戦闘は、一般的なRPGのような必須要素ではなく、任意要素として位置づけられている。一般的なRPGは、戦闘による一種の緊張感、ストレスとそれらからの解放によるテンポで面白さを演出するが、FFⅧの意図はそれとは異なる。FFⅧでは、多くの他要素と絡め、戦略的に戦闘と向き合う事を狙いとしているようである。
FFⅧでは、戦闘によるレベルアップより、魔法を装備する方が上昇する能力幅が大きく、尚且つ、戦闘を介さず、給付されたお金を元手に能力値を上げる事が可能である。また、魔法の入手に際しても、戦闘中に「ドロー(敵より魔法を盗む行為)」するより、アイテムから「精製」する方が、より多くの、また強力な魔法を入手する事ができる。
では、FFⅧは何を意図してこのような特色を持たせたのだろうか。一つには、プレイヤーが能動的に多種多様な戦闘を行ってほしいと願ったためと思われる。DQでは、効率的なレベルアップのために多くの経験値を持つ「メタルスライム」や「はぐれメタル」といった特定のモンスターと集中的に戦闘するといった現象がよく見られる。これは効率的な反面、単調作業の繰り返しに陥りやすい。FFⅧでは、経験値より、アイテムや魔法の重要度が高い。入手できるアイテム、魔法は敵キャラクターによって異なるため、プレイヤーは欲するアイテム、魔法を所持する敵を探す必要が出てくる。その結果、多種多様な敵と戦う事となる。これは一種の「狩り」のような要素を含むといえるであろう。
◆ FFシリーズにおける戦闘
FFⅧの特色を論じてきたが、シリーズにおいてⅧだけが特殊なのかと問われるとそうではない。先に「戦闘が任意要素となった」と述べたが、この傾向はFFⅣから現れたものである。FFⅢまではDQシリーズと同様、戦闘から逃走する際、失敗や敵から攻撃を受けるといったリスクがあった。しかし、Ⅳ以降、「テレポ」や「とんずら」といった魔法、アビリティによって逃走が必ず成功する処置がなされた。
戦闘を任意要素化した要因は他にもある。Ⅴでは、戦局を戦闘開始状態にまで戻す魔法「リターン」が設定され、一度戦闘を行い、敵の特徴を知った上で再戦する事が可能である。
またⅥではゲームオーバーの概念自体が他作品と異なる。Ⅵでは、戦闘中キャラクターが全滅すると直前にセーブした地点に引き戻されるが、直前にセーブした段階から全滅するに至るまでに得た経験値は引き継がれ、使用したアイテムなどの消耗品はリセットさせる。つまり、強敵に遭遇し全滅しても、前回よりパワーアップした状態で再戦できるように取り計られているのである。加えて、戦闘不能状態を一度だけ予防する魔法「リレイズ」が登場したのも、Ⅵからである。
引き続くⅦでも、この傾向は継承されている。アビリティの組み合わせによって、死亡時に自動的に戦闘不能より復帰することが可能となっている。Ⅷ、Ⅸにおいては、アビリティの組み合わせでなく、同様の効果が「召喚獣」一つに集約されている。
◆ 結論
以上に述べた事を踏まえると、FFシリーズは、良くも悪くも他のRPGとは異なった趣きで面白さを追求しているようである。「映画のようなゲームを作りたい」という開発スタッフの言葉は、Ⅳ以降の戦闘に対するスタンスに符合しているように思う。彼らは戦闘をゲームのリズム、テンポを作る要素として捉える一方で、それを不可避とするのではなく、伸るか反るかをプレイヤーに委ねる形としている。
勿論、今まで述べてきた特色はあくまで一長一短を持つものであり、FFが他作品より優れる事を証左する事ばかりを意図するものではない。FFⅧを例にしても、前作Ⅶなどに比べて、世間一般のⅧに対する評価は低い。Ⅷにおける「精製」の重要さに関しては先述した通りだが、この事をプレイヤーに気付かせる配慮が非常に少ない事がⅧの酷評に大いに関わっている。精製の重要性をプレイヤーが自発的に気付いてほしいといった製作者側が意図したデザインとも考えられるが、多くのユーザー層の支持を受けるFFシリーズに名を連ねるには、マニアック過ぎるシステムだといえる。
ともあれ、FFⅧのシステムは他に類を見ない特色を多く持つ。そのため、その本質が日の目を見ない事は口惜しく、特定のユーザー層に向けた別のタイトルとしてデザインされ得る可能性をFFⅧは秘めているのではないだろうか。
執筆:副代表フィジー